2026年1月18日巻頭言


        「キリストの前に降りて行く」   市川 牧人
四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。(マルコ2章3-4節)
 この箇所でイエス様の目に映っていた物は何だったのでしょう。それは、5節にあるように中風の人、そしてその人をイエス様のもとに連れ行こうとする四人の男の「信仰」でした。信仰とは私たちとイエス様の個人的関係であると同時に、「みんなで持つもの」です。このことを、教会に生きる私たちは経験的に知っているのではないかと思います。中風の人のように、私たちは時に、信仰が”麻痺”し、弱まります。しかし、そんなときには、信仰の友や教会の牧師、名も知らぬ世界中の祈り人によって私たちの信仰は支えられてきました。イエス様が見ていた物のもう一つは「人類の罪」です。イエス様は、中風の人の背後に厳然と存在するアダムから始まった全人類の罪に目を向けられました。その場にいる、中風の人だけを罪人だと思っていた健常者や律法学者たちは、自分たちの内にも同じように罪があるということに盲目でした。だからこそ、中風の人は、皆の前で「罪が赦される」と宣告されることで「神の業を現す」(ヨハネ9:3)役割を果たしたのです。そして、この中風の人が「釣り降ろされて」(4節)イエス様のみ前に出たということに注目したいのです。ヨナ書で見たように、私たちキリスト者の人生は自分を一番高いところに置くことから、イエス様の前に低くされ「降ろされてゆく(ヨルダン)人生」です。川の流れのように私たちは信仰という床によってどん底におられるに救い主イエス・キリストのもとに降ろされてゆきます。そして、そこで私たちは本当の解放・救い・赦しをいただきます。「下ってゆく人生」は、単なる自虐的人生でありません。イエス・キリストによって、過去・現在・未来の罪がすべて赦される、喜びの人生です。