
| 「献金しなくても神様は困らない」 犬塚 契牧師 二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。<箴言30章7-9節> 昨年から牧師招聘に相まって「もう少し献金のアピールをしてほしい」との要望をいただきました。それで7月は「献金」<も含めてスチュワードシップ月間といたしました。捉えにくく、発音しにくいこの横文字…「管理者の姿勢」「預けられた者の心得」「仕える者のあり方」くらいに理解します。▲小学校の友達が教会に遊びにきて、礼拝堂の広さに歓喜の声を上げます。大きな教会ではなくても一般家庭のリビングの数倍はあるのです。「広―い、いいなぁ!」。そして、講壇の前においてある献金かご見つけます。「これはなに?」「うん、神様に献金をするんだ」。…そこまでは説明しても、その献金で犬塚家が生活していることは、決してバレてはならないことに思えました。子供心に「ほどこし」で生きているなんて恥ずかしいと。しかし、旧約聖書に「恥ずかしい」はずの民を見つけました。出エジプト後に12部族への土地の割り当てがありましたが、各地で祭司の役割を担うレビ族の分はありませんでした。「あなたはイスラエルの人々の土地のうちに嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である。」(民数記18:20)▲「ほどこし」をする者が、実は「ほどこされている」という気づきがあり、逆転が起こり得ます。報酬、対価、等価の世界で、そんな風が吹くのなら救われる気がします。献金しなくて神様は全く困りません。ただ困るのは牧師家庭と財務執事でしょうか。痛くも痒くもない献金は感謝から出たものではないでしょう。痛すぎる献金は、上手に管理できていないかも知れません。もう一度、箴言30章をゆっくりと。 |