
| 「神の背中に乗ってどこまでも」 市川 牧人牧師 「老人になるまで私こそ彼である。白髪になるまで私こそが背負う。私こそが創造した。私こそが引き上げ、私こそが運び、救い出す。」(イザヤ46:4:私訳) 本日のみ言葉を原文で読むと「私こそ」(アニー)という語が五回も出て来ることに気付きます。ヘブライ語は主語を記載しなくても、動詞の変化で主語が分かる言語です。ですから「私こそ」という単語を独立して記載するときには非常に強い強調の意が含まれます。神は、偶像崇拝という不従順によって堕落したイスラエルの民に立ち返りを訴えるときに、何度も「私こそ!」と語ります。△このような独特な表現を用いた人物が聖書には他にも登場します。「私こそ、まことのブドウの木である」(ヨハネ15章)「私こそ道・真理・いのちである」(ヨハネ14章)、「私こそ~である(エゴ―・エイミ)」という特別な表現によって自分を説明した主イエス・キリストです。「私こそ」という表現は、「私だけ」という意味を表します。神とイエス・キリストは一つになり、罪を犯し、不従順を生き、誤った道を歩む私たちをご自分の方に引き戻そうとされるのです。神イエス・キリストは、真理は「私だけ」だと語りました。八百万の神の日本に生きる私たちはこの言葉をどのように受け取りますか。排他的で不寛容な言葉として受け取りますか。それとも、唯一の神の決して変わることのない真理の言葉として聴くでしょうか。△この節では「私こそ彼である」という不思議な表現が出てきます。多くの場合「私は私のままである」という神の不変性がここで語られていると解釈するのが普通なようです。ですが私は思うのです。この“彼”とはイエス・キリストのことであると。キリストが私たちを引き上げ・運び・救い出すのです。それは、旧約の中で最も明確にキリストを預言したイザヤ書53章にも語られています。「彼が担ったのは私たちの病/彼は多くの痛みを負い……」(イザヤ53:4)イザヤはキリストを預言者したのです。 |