
| 「ダビデに映るキリストの姿」 市川 牧人牧師 「王は言った。「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから」(サムエル記上16:10) 実子アブサロムから逃亡中のダビデ。彼は、「サウル家を破滅させた張本人はお前だ!」と言って、自分を呪い罵倒を浴びせるシムイに出会います。王ダビデは彼を殺すのではなく、そのままにしました。なぜなら、彼の言葉が神の言葉であることを知っていたからです。彼はこの時、神の言葉に敏感でした。彼はバトシェバ事件において預言者ナタンから語られた「それ(罪人)はあなただ」という言葉を忘れることはありませんでした。神の前では自分が言い逃れができないほどに罪人であるという現実を見つめ、悔い改めの中で生きたのです。悔い改めを生きることは単なる自虐的で消極的な生き方でしょうか。そうではありません。神の言葉に敏感となり、神の前にふさわしい者となってゆく過程なのです。△この後、政治的に有利になったシムイは手のひらを返したようにダビデに好意的な態度をとります(19章)。その時もダビデはあわれみ深い神の代理人として彼を寛大に赦します。しかし、ダビデは死を目前にしてシムイを処刑することを子ソロモンに命じます。(列上2章)このダビデの言葉を読むと私たちは困惑します。シムイに対する憐れみを示したダビデも結局は人間だったのか…、そう思ってしまします。しかし、その解釈では不十分でしょう。このシムイの処刑はダビデが神の代理として執行したことだったのです。油注がれたダビデを呪ったシムイは神を呪ったのです。神を呪う者は死ななければならないのです。(出22:27)ダビデは、シムイから罵られ、彼を赦し、彼を処刑するという行動をもって神の受難と憐れみと正義を実行したのです。ダビデに映る神の姿は、キリストの姿にも重なります。 |