2026年9月13日巻頭言


                 「主の前に罪を認める」   市川 牧人牧師
「『あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」(サムエル記下12章12節)
 7月からサムエル記を読んでいます。ダビデ王の姿を繰り返し見てゆく中で「ダビデはスクリーンのような人だ」と思わされています。スクリーンとはテレビやスマホと違って自分で光ることはありません。光を照らされることで映像を映し出します。ダビデもそうです。自分で光るのではなく、神という光によって照らされるときには神の姿を映し出し、闇を投影するときには人間の罪を映し出します。9章で見たメフィボシェトを憐れむダビデには神の姿が映し出されています。一方で、この場面のダビデは人間の闇の姿を映し出します。ダビデは、目に入ったバト・シェバの裸に心奪われ、殺人を犯してでも彼女を奪います。そんな彼を預言者ナタンは公然の場で告発します。神は罪を犯したダビデへの罰として、影に隠れていたダビデの罪を「太陽の下に」引き出すと語ります(11.12節)。ここで知ることは、神の善悪の基準とは、人間が考えるような道徳的・倫理的な基準である前に、「その人が神にさらけ出されているか、神から隠れているか」が基準であるということです。もちろん十戒に示された道徳的な律法があります。ですが、神の光の前にさらけ出されているならば、人が欲することは何でも与えられ、人が犯した罪は何であれ赦されるのです。ダビデは神という光を浴び神の姿を映し出すことが使命だったのです。ですが、彼は光を拒否し、自分という殻に閉じこもり罪を犯しました。ナタンの言葉は、彼の心を覆うぶ厚い殻に風穴を開けたのです。ダビデの闇は神の光のもとに「悔い改め」という形で流れ出て行きました。罪を認め、悔い改めることはつらくしんどいことかもしれません。ですが、それは罪人である私たちが闇から光に解放されるための唯一の脱出口なのです。