
| 「人の世の光と影」 草島 豊牧師 <サムエル記下9章1-13節> ダビデは周辺地域を征服し、エルサレムを都とする王国を確立した時、サウルの子孫であるメフィボシェトを大切に迎えた。ダビデはヨナタンに命を助けられた時に彼と交わした誓いと契約を忘れずにいて忠実を示した。そんなダビデの姿は人としての誠実さ、また王としての余裕さえも感じさせる。しかし、そのような誠実なダビデの姿を見ればみるほど、これから犯す彼の罪が悲しく彼を覆う。権力者としての驕りがあったのか、気を許してしまったのか、それとも人間の持つ弱さや愚かさ故なのか。理由は記されていない。サムエル記に描かれているダビデ物語は神に選ばれた英雄のはなばなしい物語ではなく神から祝福されているにもかかわらず失敗をし、罪を犯す一人の人として描かれる。▼私はこの物語を読んでいると人の切なさを思う。人とはいったい何ものかと問われる。人は神との関係において自分は何ものと考えるのかで、世界の見え方が大きく異なる。旧約聖書には登場人物の誰がどうすばらしいのか、という視点はない。神との関わりの中で、その人がどう生きたのかを見る。だから考える。私はどう生きてきたのか、そしてどう生きるのかと。自分自身がどう生きてきたのだろうかと考えるとき、自分が生きてきた足跡に、神の働きを見出す。もちろん感謝なことばかりではない。しかし神が働いてくれていた、ということにありがたく思う。▼サムエル記を読んでいると、神は人間の自由をひろく許している。許されているからこそ失敗も罪も犯す。しかし決してダビデは神から離れなかった。神もまたダビデを見捨てなかった。私たちもときに見苦しくても神にすがりついて生きていって良いではないか。信仰者というにはあまりに見苦しい姿を神に見せても良いではないか。こんな人間を見守る神に無邪気に信頼しても良いではないか。 |