2026年8月30日巻頭言


      「空っぽの私を満たしてくださる神」  市川 牧人牧師
「ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。『今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。』ダビデはミカルに言った。『そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。』<サムエル記下6:20-21>  
 8月17-18日に品川の芝浦と場で開催されたNCCの人権セミナーに参加しました。と畜業従事者への差別が現在も存在することを学びます。学びの中で、と畜業従事者への差別というのは決して江戸時代の身分制度や古代の仏教思想によって直接生み出されたものではないということを学びます。と畜労働者への差別は、動物の血を見るときの嫌悪感や、皮なめしの際に出る臭い、そして、生き物を殺しているという漠然としたイメージ(動物を殺しているのは肉を食べる私たちも同じです)といった人間が抱く素朴な感覚によって生じていると言います。と畜をしている人々を川の向こう側から遠巻きに眺めた人々が差別を生み出していきました。今回の研修ではと場見学が行われました。普通工場見学では窓越しに眺めるだけですが、芝浦と場の見学には窓はありません。作業をしている方々の間近で、同じ臭い、同じ熱気、同じ目線に立って見学します。見学者は、職員の方々の熟練したナイフさばきと、東京都のインフラを下支えしているという誇りを湛えた表情を見て、敬意と憧れを抱きました。窓越しの見学で得られない体験でした。△ダビデは、神の箱が自分の町エルサレムに来ることを歌い踊り心の底から喜びました。しかし、それを二階の窓の内側から遠巻きに眺めていたミカルは蔑みます。「空っぽな男が恥ずかしい。」しかし、ダビデの空っぽな姿は神の目には好ましいものでした。それをミカルは窓と壁を隔てたところから「見下ろしていた」ゆえに気付くことができませんでした。△私たちはダビデの姿をどこから見るでしょうか?神の言葉をどこから聴くでしょうか?イエス・キリストの十字架をどこから眺めるでしょうか。窓ガラスを破り、遠くからではなく目の前に立って、聴き、眺めたいと思います。信仰によって大胆に主の御前に立ちたいと思います。その時、御言葉は私たちに大いなる真実を語ってくださるのです。