2026年7月26日巻頭言


             「私が経験したこととして」 犬塚 契牧師
 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― 1ヨハネの手紙 1章1節
 牧師として置いていただいた27年を振り返ると、忘れられない出来事がいくつもあります。うれしかったこと、苦しかったこと、不思議な導きを感じたこと。それらは皆「体験」です。しかし、体験は時間が経ても「経験」にはなりません。神様がその出来事にどのような意味を与えてくださったのかを知るとき、初めて体験は人生を支える経験へと変えられていくものなのでしょう。▲私自身、人前に立つことが苦手な少年でした。中学生の頃、礼拝の司会を任されたときは、心臓が口から飛び出しそうな思いでした。「人前に立つ仕事だけはできない」と本気で考えました。その後も、自分が何者なのか分からず迷い続けました。それでも神様は教会へ導き、教育牧師、そして主任牧師として歩ませてくださいました。時には奇跡のような導きを体験しましたが、自分が強くなったとは思えません。今でも震えながら歩いています。▲出エジプト記3章で、モーセは神様に「私は何者でしょう」と尋ねます。しかし神様は、その問いに直接は答えませんでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」とだけ約束されたのです。大切だったのは「私が何者か」ではなく、「神様が何者か」でした。神様は遠く離れた存在ではなく、私たちと共に歩み、歴史の中に関わり続けてくださるお方なのです。第一ヨハネ1章でも、使徒ヨハネは自分の体験を語ること自体を目的としていません。「あなたがたも私たちとの交わりを持つようになるため」と語ります。神様との交わりへ人々を招くこと、それこそが証しの目的でした。私もこれまでの歩みを振り返ると、数々の出来事の中で一番確かな経験として残っているのは、「神様がいつも交わりの中に置き続けてくださった」という事実です。私が何者であるか以上に、「わたしはあなたと共にいる」と語り続けてくださる神様こそが、私たちの歩みを支えてくださるのです。