2026年7月19日巻頭言


        「何度でも私たちを呼んでくださる神」 市川 牧人牧師

主はそこに来て立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ」サムエルは答えた<サムエル記3章10節>             

 サムエルは三度の神からの呼びかけがあったにもかかわらず、その声が神の声だと気づくことが出来ませんでした。しかし、祭司エリに教えられることによって、サムエルはその言葉が神の言葉であることを知り、四度目の呼びかけにして、ついに神の言葉に応答することになりました。注目すべきは10節の「主は来てそこに立たれ」という記述が10節で初めて登場することです。一見すると神はそれまではサムエルの近くにはいなかったが、四度目の呼びかけで、ついにサムエルのそばに来てくださったように読めます。ですが、私はそうでないと思うのです。神はインマヌエルの神です。きっと初めからサムエルのそばにいたと思うのです。しかしサムエルの耳が閉ざされていたことで、彼は神がどこにおられるか気付けなかったです。ではなぜサムエルは四度目にして神の居場所が分かったのでしょうか。それは呼びかけの声を”人間の言葉“としてではなく、”神の言葉“として聴いたからでした。私たちはしばしば同じ言葉やアドバイスでも、だれが語っているかで聴く耳を持ったり持たなかったりします。これは私たちがみ言葉に向かう時にも同じでしょう。み言葉が人間の言葉であると思うならば私たちのみ言葉に対する耳は閉ざされ、神の居場所を見失います。神がそばにいて下さるという確信を失うのです。ですが、私たちがみ言葉を神の言葉であると信じて聴くならば、そこに神がいらっしゃるという事に気づくことが出来るのです。イスラエルの運命がサムエルの「聴く」という行動に懸かっていたいたように、私たちがイエス・キリストの運命がサムエルの「聴く」と言う行動に懸かっていたように、私たちがイエス・キリストの福音に聴くか否かが今、世界の運命を握っているのかもしれません。教会の氏名は私たちが思うよりも大きなものです。