2026年8月2日巻頭言


  「人間の視点と神のまなざし」サムエル記上16:1-13  草島 豊牧師
12節でダビデは「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」とあるが、これは神様の視点だろうか。しかし神ご自身は7節で「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と語る。よくよく聖書を読んでみると、実際に神はダビデを選んだ理由を語っていない。この12節は神の声ではなくサムエルの声、人間の視点ではないか。つまり神は心によって見ると語るにもかかわらず、人間はそれでも容姿に目を向けてしまう。人間は、どうしてそう判断したのか、どうして選んだのか理由は当然あるものだと考える。対して神は選びの理由を語らない。どうして選んだのかは人間に隠されている。理由を語らないそんな神の姿勢は「視点」というよりも「まなざし」といえる。ダビデが選ばれた時も、人間の視点と神のまなざしが違った。▼私たちは神にふさわしくあるためには根拠が必要で、だから信仰深くあらねばならないと考えるが、むしろ今あるこんな私を用いる神の意図、おもいを求めること、知ろうとすることが大切ではないか。先人たちも、自分たちの行動の模範としてではなく、神の前で生きたひとりとして、また生かされたひとりとして、そこに働く神の愛を思う。▼私たちは「牧師」とは、「信徒」とはこうあるべき、と考えてしまう。私にも尊敬する信仰者、牧師はいる。でもその方と自分は違う存在であり、何より神から与えられているものも違う。神の選び、神が人に託されることがあるとしても、それはその人が優れているからとか、その人の信仰が強いからと言えるものではなく、むしろ神の意図はわからない。神の思いを探り求めるのが人の人生というもの。神の召しは一人一人ちがってある。だからこの私自身への神の召しは何なのかを求めていくのが、信仰の歩みといえるのではないか。