
| 「みことばに整えられて」 犬塚 契牧師 …わたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。…聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 <Ⅱテモテ3章10-17節> パウロが「耐えた」と記す迫害の内実は、拷問と屈辱に屈強な体力と精神力で乗り切ったということではないのでしょう。「神をなきものにして生きてみよ」という神との関係を引き裂く強烈な力だったように思います。だとすれば、際立った迫害がない日本において、真に「神なしにして生き得ぬところを生きているのか」と問われます。祈らずとも朝日が昇り、呼吸をし、満腹となり、風呂が沸き、一日が終わります。神を忘れて1週間だって生きられるのです。おそらく無言の迫害の中にあります。▲「聖書はすべて神の霊の導きの下に…」という16節は、「神の霊感によって」と昔の口語訳聖書で覚えました。きっと聖書の正しさの担保くらいに読んでいたと思います。しかし、新改訳聖書の欄外に「神の息吹によって」とあるようにパウロにとっては、迫害によっても否定し難いいのちの息吹だったのだと読むようになりました。そして、これまでの導きを思い出したのです。Yさんの病床洗礼と彼が見た前の晩の夢。Sさんを海で見つけて引き上げたあの日。Aさんの遺体発見と見つかった録音記録。Kさんの「イエス様、感謝します。助けてください」という最後の信仰告白。他にも奇跡的な経験のいくつかと覚えてもいない日々がありました。それらもまた確かに神の息吹に生かされた日だと信仰を乗せていいでしょうか。▲「今日も一つ悲しいことがあった。今日もまた一つうれしいことがあった。そしてこれらを柔らかく包んでくれた数え切れないほどの平凡なことがあった。」(星野富弘)4章でパウロはテモテに、外套と共にそらんじるほど読んだであろう聖書を持ってきてくれるように頼んでいます。神の息吹によって生き得るように。 |