
| 「かみのあわれみのかたち」 犬塚 契牧師 <Ⅰテモテへの手紙1章11-20節> 近くの公園では蛍が飛び始める季節です。ただ4月にケガをしたので、桜を今年は見ることができませんでした。そのためか、イースターを過ぎてもなお、心は十字架と復活の間を行き来しています。なお受難週の中にあり、イースターも過ぎました。▲十字架の上で主イエスが叫ばれた「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉には、最悪の人間の罪の深さと神の徹底的な否があります。しかし神は、その主イエスを復活させることで、赦しと救いという決定的な肯定を示されました。私はその「NO」と「YES」の間で揺れながらも、どちらも神の深い御心の中にあることを覚えています。▲パウロはテモテへの手紙で、「律法は正しく用いるなら良いものだ」と語ります。律法は人を救いませんが、人間の罪を明らかにし、私たちを十字架へ向かわせます。そこには、人間の力ではなく、神の側から与えられる一方的な憐れみがあります。▲最近、入院中のKさんを訪ねました。膵臓を病み、食べられなくなることで急速に弱っていく姿を前に、人間の限界を痛感しました。また、必要な戸籍を取得する際、以前公証役場で結んだ契約書が役立ち、「契約」の重みを思わされました。創世記15章では、裂かれた動物の間を通る契約の場面があります。しかしそこを通られたのは神だけでした。神は、人間が契約を破る責任を、ご自身で負われたのです。そしてその約束は十字架で成就しました。神は人間の闇の中を通り抜け、ご自身を裂かれることで、私たちへの愛を貫かれたのです。私は今日も、この一方的な憐れみの福音に生かされて歩みたいと願っています。 |