
| 「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」 犬塚 契牧師 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが…信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。<テトスの手紙2章> 若いテトスが悪評高いクレタ島での教会づくりを任されています。まっとうに生きようとすれば「めちゃくちゃ」にされてしまいそうな現状がありました。そんな時の先輩牧師のアドバイスは様々なものになるでしょう。「牧師は忍の一字ですよ」「あまり辛ければおやめになられても…」「イエス様の悩みと一緒だね」「牧師なめるなと言え」…それぞれの先輩牧師たちの顔が浮かびます。パウロは「侮られてはなりません」(15節)とも書きますが、若いテトスに必要なのは、終末の視点だったように思います。ただの“世の終わり”ではなく、世界はどこに向かい、何によって贖われるのかの確認作業でした。▲機会均等や平等を標榜する現代には、「すべての人々に」の一語に驚きはないかも知れませんが、しかし、考えてみれば、日本の女性たちに選挙権が与えられてまだ80年ほどなのです。2000年前の手紙にすでに恵みを示されたのが「すべての人々」であると読めるのは当たり前ことではありません。そして、現れた恵みとは主イエスご自身でした。▲キリスト教会はずっと終末をどこにおくかを考えてきました。いまは「すでに」と「いまだ」の間にあると理解しようとしています。すでに到来した主イエスの出来事を知りつつ、なおも待ち望む信仰の姿勢です。十字架(金曜日)は過ぎ、しかし復活(日曜日)はまだ完全には見えていない。その間、土曜日を生きている。「めちゃくちゃ」な世界において、それは大変な作業に思えます。思い起こすのはヨハネ福音書8章の“姦淫の女性”が罠のように連れてこられた場面です。黙って字を書く主イエスの“間”があまりにあたたかく思います。 |