2026年4月12日巻頭言


          「恐ろしかったのに」 犬塚 契牧師
彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。…婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。<マルコによる福音書16章1-8節>
 マルコ福音書の最後の16章。ガリラヤから主イエス一行に帯同していた女性たちは、自分たちの先生の無残な死を目の当たりして、せめて香油を塗りたいと気持ちを焦らせていました。安息日である土曜日の日没を待って、急いで買い物に行き、日曜日の朝を待ちました。油を塗って丁寧に埋葬をし直したかったのです。ただ彼女たちは待ち受けている現実が厳しいことを知っているのです。墓の入り口の大きな石は彼女たちではどうにも動かしようがないはずでした。道中の彼女たちの絶望的な会話が福音書に書かれています。「だれが墓の入り口からあの石を転がして…」。人はいろんなことを考えるものです。理性を働かせ、経験を思い起こし、神経をすり減らし、そして現実を知らされ、難しいのだと知って絶望して生きています。ただマルコ16章に触れる時に、神の現実もまたあるのだと知らされるのです。「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」(4節)…意外なことです。読みにくく思えるこの1節は、神の現実と人の現実をそのまま並べ、その隔たりを隠すような細工をし、すっきり読ませようとしません。本当の現実を知っている神がおられるのだと語ります。▲マルコ福音書は、女性たちの恐れで終わります。金曜日に逃げ去った弟子たちはともかく、最後まで葬ろうとした女性たちも含めて、マルコは英雄を仕立てませんでした。「8節があって本当によかった」と礼拝後につぶやかれました。ただアーメン