
| 「贖われた者として」 犬塚 契牧師 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 <マルコによる福音書14章21節> 十字架にかかる前、最後の晩餐の場面を読んでいます。それにしても「生まれなかった方が、その者のためによかった」などという破壊力のある言葉を聖書に見つけるなんて。それを主イエスの言葉として読むなんて。ユダへの言葉であり、自分に言われているわけではなくとも、底知れぬ虚無が体をかすめます。きっと似たような言葉を自分の内に繰り返すことがあるからでしょうか。「生まれなかった方が…」。旧約聖書に登場するヨブやエレミヤもそう嘆いていました。「わたしの生まれた日は消えうせよ。」(ヨブ3章)、「呪われよ、わたしの生まれた日は」(エレミヤ20章)。▲…どうやらこれらの言葉は、“ヘブライ的な悲嘆表現”と言われるようで、存在の否定というよりも、苦しみの大きさの表れでした。主イエスの言葉は、裏切られることの怒りやうらみを発露としているのではなく、悲しみが溢れたものでした。裏切りという罪の重荷を背負い、絶望し、自らを追い詰めていくユダの苦しみと地獄のような孤独を思い、主イエスは身を切られるような「うめき」を発せられたのです。そして、みんなで最後の食事、過ぎ越しの夕食が始まります。▲今月、二人の方々を天に送り、天国には何があるのかを思い巡らしました。「完全なコミュニケーション…」と牧師の友人が教えてくれたことを思い出しました。不完全なそれを繰り返しているので、なんだか慰めとなったのです。▲主イエスがうめいたこの晩餐には、裏切る弟子たちを前にしての完全に自らを差し出す神の姿を見ます。 |