2026年3月8日巻頭言


       「最前線で待っている」  犬塚 契牧師
一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 <マルコによる福音書10章32-34節>
 主イエスは、弟子たちにこれから向かう先が「刑死」であると伝えます。陰謀うずまく政治的・宗教的の中心地エルサレムで、主イエスの首には懸賞金がかけられていますが、なおそこに向かうと言われます。さらに「…異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」と。受け取るには難しい予告だったと思います。これからの侮辱とリンチに意味などあるのか、それは敗北に他ならないのではないか。さらに復活!?冗談も休み休みに言ってほしい…そんな気持ちであったか、そもそも本気には受け取らなかったかも知れません。▲マルコ10章の主イエスの予告を読みながら、「蘇生」と「復活」の違いを考えています。死んだ人が生き返るような「蘇生」は、場合によっては奇跡でしょうし、喜びにもなるでしょう。ただ長い闘病の末などの場面ではどうか…。「死人が生き返る」とは本当は、なんなのでしょう。▲福音書は主イエスの「蘇生」を証言していません。「復活」を描いています。弟子たちが考え抜き、悩み尽くしても、辿り着けそうもない神様のみ想いが溢れた出来事でした。きっと「復活」は世界を変えるのでしょう。▲時々、まったく勘違いをしているのではないかと空を見上げ、足元を見つめます。そして、勘違いをふと知らされて、頬に当たる風が変わります。けれども大抵は、また元に戻るようなたどたどしい信仰を続けています。それでも、苦し紛れに握った手には、復活の命のかけらが残ります。