
| 「なんでこうもはずしてしまうのだろう」 犬塚 契牧師 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。…目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。…まだ悟らないのか」<マルコ8章14-21節> 30年前、奉仕神学生としての最後の日に、教会の方が白い封筒を私に手渡そうとされたので、「いやいや」と謙虚を装い遠慮しました。固辞する私に彼女が言いました。「あなた、これ手紙よ」▲「130過ぎたらゴマ麦茶」のテレビCMを見ながら、幼かった長男は「いったい誰がこの麦茶を飲めるのだろう」と不思議に思っていました。ひいおばあちゃんでもあと30年必要でした。▲教会入口の説教題を見て、「今日の説教は、私の競馬の話ではないですよね?」▲…日常にたくさんの勘違いがあって、笑いがうまれます。パンを忘れた弟子たちは、「ファリサイ派やヘロデ派にパン種を借りたら、また難癖つけられるから気をつけなさい」とでも受け取ったのでしょう。“パン違い”でした。気づいて主イエスは大笑いしています。こんな日常の一コマが懐かしくも回想され、福音書として残されました。なぜこんな“勘違い”エピソードをわざわざ入れたのでしょう。マルコ自身やその共同体に必要な思い起こしだったように感じます▲「まだ悟らないのか」との最後の言葉は、主イエスの𠮟責でなく励ましでした。四千人の給食の満腹も五千人のその時も「だいじょうぶだったでしょ」。そう主イエスは言われます。さらに著者も読者も復活の出来事をも知らされて、振り返っているのです。福音書は、先が分からぬミステリー小説ではありません。復活の希望を知らされつつの回想録です。「まだ、分からないのか、覚えていないのか…悟らないのか」という耳に響く言葉は、十分な労苦があるその日を支えるものでした。ユダヤ教との決定的分離とそれと伴って異端視され、迫害されていく心細さを覚える教会に、こんな主イエスの言葉が必要だったのです。 |