2025年12月14日巻頭言


          「神にできないこと」    犬塚 契牧師
 「すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」 <ルカによる福音書 1:26-38>  
 自分の身体に起こった異変にマリアは戸惑ったと思います。取り越し苦労であれば、どれだけホッとしたことかと思います。「やっぱり勘違いだったんだ!」であれば、それこそ「おめでとう。恵まれた方」の天使のあいさつにふさわしい知らせでした。しかし、受胎告知…「あなたは身ごもって男の子を産む…」。決定的に残酷な知らせでした。マリアが十代であった可能性もあるようで、いわば未婚の中学生が妊娠をするような場面です。教会では子どもたちが降誕劇を演じるものだから、なんだか頬も緩むのですが、二千年前のパレスチナでは、石打ちもあり得たようで、「こんな恐ろしいことがあっていいのだろうか」という悲嘆のシーンです。▲何かが染み出す、漏れ出す、こぼれる、波及する、滲む、あふれる…時には、穴、出口、切り口、破れ、傷口が必要なもののようです。ならば「歴史への神の介入」には、どれほどの痛みがあったことかと思います。見渡す歴史の中で神の突破口の一点は、マリアでした。▲波のように寄せる痛みと進行する病を持つ人の傍らで、これからの準備とその「覚悟」はどれほど必要かと医療者に尋ねました。今となってはあまりに浅薄な質問でしたが、答えてくれました。「覚悟…うーん、覚悟ねぇ。私たちは覚悟しても…それよりも体は正直だから、できなくなる自分を知らされながら生きるというか…」。▲受胎告知は、準備と覚悟ができた人に押し寄せた朗報ではありませんでした。まるで整わぬしっちゃかめっちゃかの雑然に思えます。ただこの地への「神の介入」は、一方的でしかも恵みの調べをもって伝えられます。生きる有様にふさわしいのだと思えています。