2025年11月23日巻頭言


    「破れた後にだけ希望が芽生えるようです」 犬塚 契牧師
その日には わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し その破れを修復し、廃虚を復興して 昔の日のように建て直す。…見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ すべての丘は溶けて流れる。 <アモス書9章11-15節>
  アモス書9章10節までは、滅多打ちのような裁きが語られています。それは、もう目が当てられないくらいで、思わず目をつぶってしまいそうです。しかし、恐る恐る閉じた目を再び開いてみると11節以降の希望の預言が続いているのです。えっ?んっ?なんで?どうして?何があった?…。聖書学者の多くは、9章11節以降を後代に加えられた文章とみなしています。なるほど、そうかも知れません。しかし、どちらでもいいのです。絶望のその淵で11節以降にあるような希望にしがみ付いた人の存在に慰めを覚えています。信仰はなくなりそうなところから始まると読んだことがあります。希望もまた絶望の淵に湧くものに思えます。ならば、朝に夕にうろたえる者も希望は、捨てずにもっておいてもよいのではないかと…。「希望の源である神が…」(ローマ15:13)神が希望の源であるそうですから。▲今週は、子ども祝福式を礼拝中に行いました。集った子どもたちに講壇前に立ってもらい祈りました。「…どうあったって、私たちには希望が必要です。それは、いつかなんとかなるという希望でも、やがてよくなるという希望でもなく、いっさいがなおあなたの知らぬところではないという希望です。」▲アモス書…記述預言書の最初にして、すでに世界を射程に伝えられる言葉と浮足立つ繁栄のイスラエルにおいて忘却された人々への共感、そんな小さな傷・亀裂から広がる神の裁き、その徹底した裁きになお残る希望と知らされる神の御想い。日々、色を加える秋の山を見ながら、この時期に読むことができたことの幸いを覚えています。