
| 「死よ 驕るなかれ」 犬塚 契牧師 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。…死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。<1コリント15章51-58 節> 召天者記念礼拝の準備で遺影を講壇前に並べました。懐かしい顔があり、改めて亡くなったことを思い起こした方もありました。「あーそうか、亡くなったのだった」と。近年は葬儀も増えました。先週もお一人を見送り、今週もまた告別をいたします。講壇の前の方々と地を一緒に生きた時間がありましたが、今はどこを探しても見つからないのです。この方々は一体どこに行ってしまったのか…。今年はなんだか簡単に聖書を引用して、説明をつけてしまいたくない想いが募ります。死に触れられて出来事に遭遇することが多くなったせいでしょう。それは「やがて」でなく、「となり」でありました。はっとしています。▲「永眠者記念礼拝」「逝去者記念礼拝」など言い方は教会によって違いますが、ふじみキリスト教会では、「召天者記念礼拝」とこの日を呼びます。「召された方々」がおられるということは、「召した方」がいるということにいまさらに気づかされました。それは「どこに行ってしまったのか」の一つの答えです。召した方のもとにいるということでしょう。教会ではそういう礼拝を続けてきたのです。▲パウロがコリント教会に手紙を書いています。「朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着る」。これまでの自らの来し方を振り返り、ふさわしいとは思えません。似合わぬ服でしょう。朽ちてしかるべきか。ただ、パウロはそれが与えらえる理由を一切自らに求めていません。上記聖書個所、ゆっくり読むとなんだか沁みます。 |