
| 「神の言葉が人間を変える」 市川 牧人牧師 主の言葉が再びヨナに臨んだ。 「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」ヨナ書3章1-2節 ヨナ書三章において、神は一章でヨナに語った言葉とほとんど同じ言葉で命じます。「立ち上がってニネベに行け。」変わらない神の言葉を軸に一章、二章、三章と変化するヨナの姿が描かれます。ヨナは、この「ニネベへ行け」という神の言葉に寄り添われながら、主によって変えられる旅路を下って(ヨルダン)ゆきました。そこには、不従順であったヨナに対して忍耐し、ヨナを愛そうとする神様の深い憐みが示されています。一方で、一章と三章の言葉が少し変化をしています。一章では神様はニネベの人々の邪悪について触れていますが、三章では触れていません。この変化は、神様の気分が変わったから生じているのでしょうか。違うでしょう。ここには、ヨナの心と感情に寄り添う卓越したカウンセラーである神様の姿が示されています。すなわち神様は最初からニネベの人々を愛していました。しかし、ニネベの人々を憎むヨナに寄り添って語り掛けるため、ニネベの邪悪に触れつつヨナに語り掛けるのです。ですが、海に投げ込まれ救われる体験を通して少しずつ変わっているヨナに対して、再び同じ命令をするときには、ニネベの邪悪についての言及はなくなります。神様は、今度はまっすぐに「わたしの言葉を伝えてくれ!」とヨナに命じます。ヨナは神のカウンセリングを受けながら、少しずつ変わっていくのです。この姿に私たちはキリスト者の人生を学びます。私たちは信仰を持ち、バプテスマを受けたなら一瞬で完全に変わってしまうのではありません。ほぼ何も変わっていないように見えるくらいの変化しか生じません。ですが、神の言葉に繰り返し向き合い、その寄り添いを受けながら繰り返し変えられてゆくのです。そして必ず完全にキリストの姿に似る者へと聖霊の力によって変えられてゆきます。それは、忍耐が必要な地味な旅路かもしれません。ですが、それこそこの地上を生きる信仰者の「聖化」の歩みなのです。ふじみキリスト教会の年間標語を大切に思い返しましょう。「私たちは救われ続け」ます。それは、私たちは神の言葉によって変えられ続けることを喜ぶ宣言であります。 |