
| 「糸の切れたヨナ」 犬塚 契牧師 船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」 <ヨナ書1章6節> 「虐げられた民が解放を経験した後、民族的排外主義に陥ることはあるでしょう。 ホロコーストを経験したユダヤ人の一部は、ナチス・ドイツの崩壊後、残党や協力者たちに容赦ない私刑を加えました。満州国を追われた日本人たちもまた、報復を恐れて逃げてきました。心痛む人間の歴史です。ヨナ書もまた、おそらくバビロン捕囚後に、自国中心主義に傾いた民への自戒の書として編まれたのでしょう。当時の空気からしたら勇気ある告発の書にも思えます。実在した預言者ヨナの名を借りていますが、描かれているのはヤバく、キワモノで痛い預言者の姿です。列王記に登場する“アミッタイの子ヨナ”という古い預言者の名を借り、風刺的に描かれています。預言者ホセアは『エフライムは鳩のように愚かだ』(ホセア7:11)と語りました。ヨナ(鳩の意)と重ねると、そこに興味深い皮肉が響きます。ヨナは、預言者でありながら神の言葉から逃げる人として描かれます。ヨナ書では、異邦人の船長や乗組員、ニネベの人々、大臣、王、そして家畜たちを通して、ヨナ自身が問われていきます。人々を照らすはずの“預言者”が、人々から照らされる――そこにアイロニーと逆説、そして深い風刺があるのです。ヨナ書は、どこでわらいながら、読んできた私たち自身を映す鏡となり、こう問うのです。『お前は怒るが、それは正しいことか。』(4章4節)▲4章の短い預言書を主イエスは引用されました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。魔術師や手品師のごとく主イエスを囲む人がいたでしょう。しかし、ヨナのしるしだけだと言われる。ヨナのしるしとは何か。「やっぱりだめだ」のヨナと「大丈夫」の神の物語 それは、崩壊と再生の物語、ひいては、死と生の物語 つまりは、十字架と復活のことです。 |