2025年9月14日巻頭言


  「覚悟を決めた時の恐怖心、それが勇気だ」    犬塚 契牧師
主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。「わたしの僕モーセは死んだ。」(1節)<ヨシュア記1章>
 ヨシュア記の冒頭の「死後」「死んだ」と繰り返される渇いた死の報告にとまどっています。偉大なる指導者は死なずにミイラであっても生き続ける古代エジプトの背景を知りつつ、モーセは約束の地を前にしてちゃんと死んでいます。ヨシュア記は「後継者ヨシュアの時代だ」という、すみやかなる権威移譲を伝えるのでもありません。ヨシュア記1章は、途方もない大きな断絶を覚えています。まとめられたのは紀元前6世紀のバビロン捕囚期と言われますので、モーセの時代からは600年以上の隔たりがあります。「申命記史家」のペンの向こうには、大きな「死」が横たわり、断絶が深まっていました。国の崩壊、神殿の破壊、社会システムの瓦解とこれからの不確かさと不明さ…。死んだのは、モーセだけではなかったのです。その淵に立たされているのは、ヨシュアだけではなかったのです。そんな場面にありながら、響かせた言葉が1章に4度も書かれる「強く、雄々しくあれ」でした。▲もうすでに王制は破綻し、王もいないのに、王が即位したときの表現を用いて1章は書かれます。もうすでに領地は、他国のものになっているのに、かつて最大だったダビデ・ソロモン時代の領地の範囲をヨシュアの前に広げています。それは、「あー昔はよかったのに」という懐古主義ではなく、凄まじい回復の希望でした。ただ期待できる根拠を、自らのうちに見つけることができません。外、見渡せど、内を掘ろうと見つけることができないのです。ただ、そこで聞こえる言葉があります。「あなたがどこに行っても、あなたの神、主は共にいる」。歴史の深い断絶に主ご自身が繋いでくださるという希望です。「どんな命のかけらも、死がほんの少しでも触れていないものはないということが身に染みて分かってくると、私たちの存在の限界を超えた先に眼差しを向けるようになります」(H・ナウエン)