
| 「礼拝の喜びーイエス様の言葉が聴きたい!」 市川 牧人牧師 「主はお答えになった『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」」(ルカによる福音書10章41-42節) これまで三回にわたってスチュワードシップについて学んできました。最終回である今日のテーマは“礼拝”です。私たちはなぜ礼拝を毎週ささげているのでしょうか。それは、礼拝とは「神の言葉を聴く」ことであり、それによって一週間を始めるのが私たちクリスチャンの生き方だからです。これなくしては献金も、奉仕も、祈りもありません。ではどのようにして「聴く」べきか。それは「十」字架を「耳」「目」「心」が囲んでいる「聴く」という字に示されています。私たちは十字架という福音を、礼拝における朗読と説教の中で第一に耳で聴きます。第二に、主イエスが制定した「主の晩餐式」と「バプテスマ」によって私たちは目で十字架の福音を聴きます。第三に、私たちが生きる中で直面する困難や苦しみの中でイエス様の福音が心に染みてくる、みことばが心の一番深いところまで届いて深く感動するような体験をする、このようにして十字架の福音を心で聴きます。さらに、この「聴く」という言葉には「ゆるす」(聴す)という意味が含まれているのです。私たちキリスト者にとって「ゆるし」とは、第一に十字架による自分たちの罪からの赦しであり、第二に、どうしてもゆるせない相手がいたときに、十字架の主イエスを耳で、目で、心で聴いたときはじめて可能となる隣人愛としての「ゆるし」です。私たちは本来愛のない者です。ですが「みことば」の力に頼るならば私たちは愛する者へと変えられてゆきます。マルタはスチュワードシップを形では実行していましたが、なによりも大事な「神の言葉を聴く」ということを忘れてしまっていました。それでは全く意味がありません。そうではなく、マリアのようにまず何よりもイエス様の言葉を聴くことから始めたいと思います。私たちが毎週礼拝をささげる意味はここにあるのです。 |