
「なすべきことはただ一つ」 犬塚 契牧師 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 フィリピ 3章10-4章1節 「あやかる」というのは、だいたい成功者とか偉大な功労者、宝くじの当選者に対してだと思っていました。なのに「その死の姿にあやかり」と書くとは、当たり前のことではないのでしょう。その死とは、天に拳を突き上げて「わが人生に一片の悔いなし」(北斗の拳:ラオウ)のようなものでなく、イエスのものであり、十字架の死です。その神はイエスを捨て置かれず、復活させられました。歴史の中に深く掘られた一連の出来事が、2000年前の古代ローマ帝国に生きた信仰者のいのちの汲み場となりました。書かれたのは、十字架の事件から30年ほどの時期です。ゴルゴダの丘を間近で見ていた人も健在であったでしょう。美化するにはまだ早く、美談にするには生々しすぎる傷でした。だからきっとみんなほんきです。▲神の最も忌み嫌われた見せしめの処刑は、ユダヤ人には呪いであり、ギリシャ人には愚かなことでした。しかし、神の下降、神の恥、神の弱さが、かつて徹底的な迫害者であったパウロの真の慰め、地を生きる人々のいのちとなりました。▲「なんだか面倒くさくなっちゃった」。山を越えてもなお人生は続きます。「めでたし、おしまい」の続きがあります。その面倒さに時々、疲れ、やられてしまいます。ただ、「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」ということもまた覚えつつ、「生きる」を聞きたいのです。 |