2025年6月22日巻頭言


「イエス様がいればもう何もいらない」  
              市川 牧人牧師
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。(フィリピの信徒への手紙3章8節) パウロは2章で「喜び」について語りましたが、一転、3章では「嫌いなもの」について語ります。それは8節でキリスト以外の他の物、すなわち律法主義を「塵あくた」と表現していることからも分かります。この言葉は、原語では「汚物」や「糞尿」を表す言葉です。無味乾燥な塵、というよりも、悪臭を放つすぐにでもトイレに流してしまいたいようなものなのです。パウロはそれほどに「自分の力で救いに達する」という律法主義の教えを嫌っていたのです。しかし、人間というものは自分の力を信じ、律法主義を愛してしまうのではないでしょうか。ではなぜ、パウロは律法主義を嫌悪するに至ったのでしょうか。それはパウロの過去のクリスチャンたちを迫害し、殺してきた記憶、なによりも聖霊に満たされた顔で死んでいった殉教者たちの記憶がパウロをそうさせたのではないかと私には思われてなりません。パウロは6節で「熱心さの点では教会の迫害者」と語りました。ここには過ちを犯してきた過去の記憶がパウロにとってどれほど大きなものであったかということが示されています。パウロは立派だから、完璧主義者であったからキリスト以外のものを汚物と言ったのではありません。パウロの生きてきた歩み、そして消すことのできない罪深い過去がパウロを必然的にそうさせたのだと思うのです。今日の箇所から「巨人」「偉人」としてのパウロを見るのではなく、罪の耐え難い記憶と救いに対する切実な呻きを携えた「小さき人」パウロを見たいと思います。そしてそんなパウロだからこそ、見出したこの世界でもっとも価値あるもの、主イエス・キリストを私たちも信じ礼拝してゆきたいと思います。