2025年6月15日巻頭言


   「イエス様を喜ぼう!」 市川 牧人牧師


 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 (フィリピの信徒への手紙 2 章 6-8 節)


 宗教改革者ルターは、『キリスト者の自由』という小著の中で「キリスト者は王であり、奴隷である」と語りました。私たちはなかなか「自分が王である」ということを意識することはありませんが、パウロはそのことを語っています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマの信徒への手紙 8 章 31 )キリストの恵みによって王となった私たちを打ち負かすことができるものはもはやこの世にはありません。なぜならば私たちの主イエス・キリストが私たちの味方だからです。巷では人々を不安にさせるようなうわさや予言があるようです。「〇月〇日〇時〇分日本で大地震が起きる」というような予言が私たちの心を騒がせます。ですが、大丈夫です。私たちにはイエス様という味方がいるのです。どんな敵や災い、大災害、そして死が襲って来ようとも、私たちをイエス様から引き離すことができるものはないのです。なんという喜びでしょうか。パウロはこの「喜び」をフィリピ書の中で何度も語り、分かち合い、表現します。そして、ルターが示すように、この王である喜びを知った者だけが、真の「自己放棄」「謙遜」を実践することができるのです。真にイエス様を喜んだ者だけが、自分を捨てて十字架を負い、隣人のために命を捨てる愛を実現するのです。だからこそ、イエス様の死にまで従順であった姿が初代教会の喜びの賛歌として 2000 年を越えた今にまで伝わったのです。私たちは油断をするとすぐにこの喜びを無視して「自己放棄」「謙遜」に直通で向かおうとしてしまいます。ですが、イエス様にある信仰義認の喜びを経由しなければここで歌われるイエス・キリストの愛の姿に至ることはできないのです。