
「世を去るもよし、生きるもまたよし」 犬塚 契牧師 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 <フィリピの信徒への手紙1章12-30節> 主イエスキリストの十字架の事件から、30年が過ぎようとしています。今でいうならば、阪神大震災や地下鉄サリン事件を覚えるような感覚でしょうか。ローマの死刑囚となったイエスの運動など、瞬きの花火で終わるはずでした。人の噂も七十五日。「あーイエスねぇ」…時と共に風化して何も残らないはずでした。犯罪者として死んだラビに命を傾けて生きるなどバカみたいです。まして、苦しみ多い人間存在の底支えになりはしません。しかし、手紙が書かれた紀元60年頃に、すでに「…イエス・キリストの霊の助けとによって」(19節)と表現されています。「おい、いい加減なこというな!イエスは確かに死んだんだ」という怒りと悲しみのクレームが上がってもおかしくはありません。まだ生前の主イエスに出会った人たちも存命中だったのです。しかし、“主イエスの霊”の脈動がありました。“主イエスは生きておられる”という信仰が生きていました。三位一体のキリスト教教理が確定するはるか前に、パウロは獄中で主イエスの命を生きていました。なんだか初期の教会の鼓動が2000年の時を超えて聞こえてくるようです▲フィリピ書は、教会に課題があり、そのための応答ではありません。パウロの喜びと感謝の手紙です。彼に自由はなく、束縛され、空腹で貧しく、差し入れで生きる以外にありません。ただ4章を読むときに聞こえてくるパウロの弾んだ声は、まるで「だって、イエス様みたいでしょ?」と言っているようです。“イエス様みたい”は、結局十字架を超えて復活を得ます。 |