
「『頑張る』から『信じる』へ」 (ガラテヤの信徒への手紙5章2節)
市川 牧人牧師
教育の基本方針が「体育会系のノリ」から「ゆとり」へと方針転換された今、若者たちは「ルール」や「集団」から解放され「律法主義」とは無縁の中に生きているように見えます。ですが、現代の若者たちの間に潜む「律法主義」を私は知っています。いま、若者の間で熱狂的な人気を呼んでいるラーメン屋さんがあります。そのラーメン屋さんにはルールが沢山あります。たとえば、「15 分以内に食べ終わる」「決められた列に並ぶ」「大きな声で注文する」など……常連客は、これらのルールが守れているかで真の常連客かそれとも「にわか」であるかを判別します。また、そのラーメンは量がとにかく多いのです。必死に食べる客の姿はさながら修行僧の様です。しかし、そこには異様な一体感があります。ルールを守れている者たちの一体感、山盛りのラーメンを食べきることができる「選ばれし者たち」の一体感があります。まさに、このような一体感を、ガラテヤ教会は作ろうとしていたのです。しかし、パウロはそんなガラテヤ教会を激しく叱責しました。大きな痛みを伴う割礼、厳しい禁欲的な食事規定、これによる一体感の形成はガラテヤのクリスチャンになりたての異邦人たちには魅力的に映りました。しかし、パウロは断言します。「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」(2 節)上記のラーメン屋の一体感は、自分の力で何かを頑張った者たちのみが享受できるものでした。しかし、パウロはもし自分の頑張りに頼るならば、キリストとは何の関係もない人となり、その恵みを捨てることになるとまで言うのです。パウロはキリストとわたしたちを結び付けるものは「信仰のみ」であると語りました。信仰による一体感には上記のラーメン屋にはない「やさしさ」があります。キリストが示してくださった愛には「頑張り」や「ふさわしさ」といった条件を何も必要としないのです。このキリストの愛に応え、ふじみ教会に集う私たちもお互いに「頑張ったか」ではなく「キリストを信じているか」を大切にし合う共同体となってゆきたいと思います。