
「よい知らせがあります」 犬塚 契牧師
キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。…しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。 <ガラテヤの信徒への手紙 1章1-12節>
「呪われるがよい」とは厳しい言葉です。パウロの手紙には、たいてい教会への感謝が記されていますが、『ガラテヤの信徒への手紙』にはそれが見られず、挨拶もそこそこに厳しい語りが始まります。怒り心頭という様子です。…が、「ほかの福音」はそんなに悪いのでしょうか。もっと悪い教えは他にもありそうです。キリストの神性、三位一体を否定したのでもないでしょう。現代に置き換えても、キリスト教の“異端”と数えられるかどうか。エルサレムから教えにきたユダヤ主義キリスト者たちが教えたのは、福音+いささかのαであり、αとは割礼に代表されるような律法でありました。福音は大切、ただこれまでの律法も守るべきでしょう…なるほど、それはそうかも知れない。そもそも宗教と行為は相性がいいのです。信じている気になるものですし、“恵み”だけではやはり落ち着きが悪い。正しさの階段は登っていくのが筋でしょう。そんなムチを打つ教えが馴染むのです。ただパウロはそんな教えに対して書きました「わたしはあきれ果てています」▲地理的な隔たりと時間的な開きがあるので、はびこる“律法主義”を肌感覚で知ることができません。ただ「律法」を置き換えて「…ねばならない」という苦痛は分かります。瞬時にして人を裁き、両刃の剣で自分を裁きます。それでお互いは一緒にいられなくなるのです。しかし、パウロの渾身の怒りは、キリストの恵みのみへと強く引き戻します。 |