
「自分は救えない神」 犬塚 契
『三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これ
は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』
マタイによる福音書27章36-56節
祈り会、教会学校、礼拝で聖書教育に従って、マタイ福音書を読んできました。
主イエスキリストの十字架の場面です。▲若くして死んでしまったがゆえにむしろ
伝説として知られる著名人がいます。俳優でも歌手でも革命家でも…。それでも伝
記が書かれれば、当てられるスポットライトは人生の一番良き時となるでしょう。
それがまさか死の前の1週間と処刑の日になるというのは、まともな話ではありま
せん。しかし、4つの福音書はその3分の1を最後の週に割き、十字架に向けてス
ローモーションのように描きます。「新しい宗教の始め方」としては、随分と無茶に
思えます。「宗教の創始者」たるや見るからに漂うカリスマや見えざるものを見る能
力、ハッタリでも未来予知や仕掛けはあっても魔法の粉、はたまた成功保証の壺や
キラキラしたリア充の約束…それくらいのインパクトがないと難しいのではない
でしょうか。十字架で処刑された囚人を神とあがめるなんて、正気と思えず、敗北
の宗教、失敗の宗教、救えない宗教です。そもそも「木にかけられた者は神に呪わ
れた者」という社会通念の中で、伝道はどれほどの困難かと思います。ただそれが
伝えられるべき事実でした。▲①罪の身代わりに屠られてきた生贄、②解放を記念
してきた過越の祭り、③神と人を隔てた幕屋の裂布、④瀕死の先祖が見上げた青銅
の蛇…それらを主イエスの十字架に重ね、神の救いの完成を見たのです。十字架上、
主イエスが嗚咽した「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
とは、私の“代弁”であったと今、心に仕舞うように受け止めています。もうその言
葉を口にすることも、頭にめぐらす必要もなくなりました。