2025年4月27日巻頭言


「新しいはじまり」 犬塚 契
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄
り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 マタイ 28章1-10節


主イエスキリストが十字架上で息絶えた時、弟子の数は0でした。多い時には70人
を超え、のちに12名が選抜され、十字架前夜には11名となり、最後は誰もいなくな
りました。元弟子たちは自分たちの逮捕を恐れて隠れてしまいました。ならば、イエス
の教えは、やがて風化していくでしょう。一つの書物も作品も残しませんでした。ほど
なくして田舎出の不幸な死刑囚は忘れ去られていくでしょう。しかし、“何か”があって、
弟子たちは立ち上がって宣教者となり、軒並み殉教していきます。その生涯は覚えられ、
歴史上の出来事すべては主イエスの誕生以前、以後で分かれるようになりました。“何
か”があったのだと思います。その“何か”を新約聖書は、“復活”と証言をしています。復
活とは、死んだ人がもう一度息を吹き返す蘇生とは違います。人間がもし蘇生を繰り返
すことがあれば、喜びではなく恐怖に変わるでしょう。それは苦手なホラー映画です。
▲私は、時間と空間の中で復活が起きたことを信じるものですが、ただいつもの認識で
捉えきれないような新しい命のはじまりであったと思っています。復活は、四福音書の
すべてに書かれていますが、女性たちを最初の証言者としている以外は、それぞれに食
い違いがあり、状況報告もいささか異なっています。証言を整え、整合性をもたせる時
間は十分にあったのにそれがなされないまま今日まで“ドン”と置かれています。この記
事を前にして、復活を問うのではなく、復活から問われているのだと思います。▲マタ
イは主イエスの第一声を「おはよう」と残しました。忌まわしく悲しみの絶望が数日前
でした。忘れられぬ裏切りの負い目が心に残り、果てしなく広がる不安の風船が浮かび
ます。「よくも!」が主イエスの第一声ではありません。…「おはよう」は、昨日と一緒
です。先週と一緒です。変わりなき日常が蘇ってそこにありました。きっと、この「お
はよう」で、今日が守られているのです。在らしむる神の本音が聞こえていますか。