巻頭言
1998年12月


1998年12月 6日

「礼拝と降誕」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。 (ルカ1:79)

人生にはいろいろなことが起こります。思いもかけない悲しい事件、事故、出来事 などが突然起きて、心が混乱し、思い煩って絶望感に突き落とされる時はないでしょうか。 正に「暗闇の時」の到来です。人間は本当に弱いものです。苦しいことにはなかなか耐える ことができません。

「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。」 (箴言17:22)暗闇は恐ろしい時間ですが、必ず、朝の光によって照らされたならば、過ぎ去って いくものであります。義の太陽であるキリストは、私たちに近づき、悪魔の悪計を打ち砕かれ るのです。

私は、昔、「ベン・ハー」という映画を観たことがあります。ライ病に冒され、死の 陰に伏していた人々が、突然輝く光に照らされ、いつしか健康な体に回復するという感動的な シーンがありました。

なぜ、このような奇跡が起きたのでしょうか。 それは、神の御子がゴルゴダの丘で、血を流し、その救いの御業を完成されたからでした。 このイエスを仰ぎ見たとき、彼らは突然、癒され始めたのです。イエスは十字架上で、「なぜ わたしをお見捨てになるのですか。」と父なる神に絶叫されました。それは、正しく、私たちの 呻(うめ)きなのです。主イエスは、私たちと一心同体となって、共に苦しみ呻いておられるので あります。ここに私たちの救いがあります。主が私たちの側に、私たちのただ中に宿ってくださ るのです。クリスマスとは、主が私たちの所に来て下さった証拠なのです。



1998年12月13日

地には平和

牧師 犬塚 修

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)

世界各地で、いかに激しい戦争が行われていても、クリスマスの時になると「クリスマス停戦」 として、平和が訪れます。それは、クリスマスとは、本当の和解、平和の意義を力強く語 っているからであります。この時、憎悪が打ち砕かれるのです。また、主を宿した人は平和 の人となるのです。この平和は神と私たちの和解によって与えられました。「神は、キリス トを通してわたしたちを御自分と和解させ」(コリント二5:18)「こうしてキリストは、 双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、…十字架によって敵意 を滅ぼされました。」(エフェソ2:15,16)

クリスマスの夜、天ではみ使いの讃美の声が 響き渡りました。そして、この美しい調べに耳を傾けたのは、貧しい羊飼いたちでした。 彼らは、無学で、世の人々からは軽んじられていましたが、本当に純真な信仰を持ってい ました。日常生活では、厳しい労働に疲れ果て、悲哀の人として、報いの少ない辛い境遇 に置かれていましたが、彼らこそ、真の平和の担い手だったのです。たとえ、彼らの回り は寒風に吹き荒らされていても、心の中には豊かな平安と喜びが泉のようにコンコンと湧 いてきたことでしょう。なぜなら、これから、救い主とお会いするのですから。

私たちも、 いつも主とお会いすることができます。天を仰ぐ時、声なき声が聞こえてきます。み使い たちのメロディーが魂にしみ渡ってきます。そして、ますます主に近づいていくのです。



1998年12月20日

平安に満ちるクリスマス

牧師 犬塚 修

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り 子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)

「クリスマスの喜び」は、心の平安をもたらします。ノアの箱舟の外は大嵐で 怒濤の波が荒れ狂っていても、内側は、安全そのものでした。沢山の命がひしめき 合い、互いに体を寄せ合いつつ、新創造の明日を待ち望んでいました。イエス様の 飼葉桶はこの箱舟に似ています。スヤスヤと眠られるみどり子は、平和の主であり、 また、私たちの信仰の創始者、また、完成者なのです。「わたしは、平和をあなた がたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるの ではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)

どんなに辛く悲しい ことがあっても、私たちの心からこの平安を奪い去ることはできません。この 世界がいかに暗くても、永遠の光は消えず、逆にますます輝くのです。「光は 暗闇の中で輝いている。」(同1:5)この平安は罪の完全な赦しに基づきます。 私たちの罪が緋のように赤く、恐ろしいものであっても、主は身代わりとして 死んで下さいました。今、私たちは罪赦された喜びと感謝に心が満たされています。

いろいろなことで心を痛め、悶々と悩み続けることは、もはやありません。 「私は救われた」と明言して生きることができます。また、平安は復活に起因 します。墓から甦られた主は、私たちにも永遠の命を与えてくださいました。 今や私たちは「恐れるな」のみ言の中で全き平安の一生を過ごすのであります。

少年・少女会によるハンドベル讃美(1998.12.20)



1998年12月27日

数えてみよ、主の恵み

牧師 犬塚 修

日ごと、主を畏れることに心を燃やすがよい。確かに未来はある。 あなたの希望が断たれることはない。(箴言23:17,18)

「望みも消えゆくまでに、世の嵐に悩むとき、数えてみよ、主の恵み、 なが心は安きを得ん、数えてみよ、主の恵み、数えてみよ、一つずつ、 数えてみよ、主の恵み」(聖歌604)主は、今年も恵みを真珠の首飾り のようなものとして与えて下さいました。天国の「十二の門は十二の 真珠で」(ヨハネ黙示録21:21)造られています。

そのように、私たち の一年(12ケ月)も、真珠に似ています。真珠は、たまたま地底か ら掘り出された訳ではなく、海底にいるアコヤ貝が、自分の痛みと苦 しみを通し、長い月日を重ねた結果として、育て上げられたものです。

同じ様に、主の恵みは、私たちにとって、当座は喜ばしいものとは思わ れませんが、後になると、その深い意味が知らされます。確かに、私 たちは、自分の十字架を負う事で、主の恵みの広さ、深さを自然に体得 していくのです。

故に、私たちは、いかなる時でも、主を畏れ、主を第 一とする生き方を貫きたいものです。決して、「暗い運命」とか「避けら れない宿命」等という否定的な言葉に、惑わされない事です。

むしろ、 未来に大いなる明るい希望を抱く事です。「私は、主の恵みにいつも満 足し、感謝と平安に満ちています!」と言える人は、未来に対しても、 輝く夢と幻を抱く事ができます。新しい皮袋を用意しましょう。それは 困難も試練のすべて、主のみ心のうちにあるという確固とした信仰とまた、 忍耐深い待望の信仰という新しい皮袋であります。

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