巻頭言
2023年12月


2023年12月3日

「苦難を負う僕」

市川 牧人神学生

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいる のだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに 平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から 断たれたことを。 <イザヤ書53章1-8節>

 イザヤ書53章では、国を追われ蹂躙された後、絶望の淵にあったイスラエルの民のただなかに与えられる「主のしもべ」についての預言がなされています。その主のしもべの姿と言えば「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」のです。その人の背中には人々が目をそむけたくなるようなみみずばれの傷が無数についています。「ああ、何かこの人は悪いことをしたのだ」「これほどの鞭打ちの痕があるなんてどれほどの極悪人か」人々は主のしもべの姿を見てそう思いました。しかし、預言者イザヤは語ります。その人こそ、イスラエルのすべての罪と咎を負って死に、神の怒りを宥めた救い主であると。人々は誰もそのことに気付いていませんでした。まさか、主のしもべの背中に深く刻まれた傷が本来自分たちが受けるべき傷であるなど、誰も気づきませんでした。また、イザヤ書53章では「わたしたち」という一人称が繰り返されています。この「わたしたち」は他でもないふじみキリスト教会に集う私たち一人一人をも指しているのです。主のしもべが負った病と痛みは、私たちの病・痛みに他なりません。もはや私たちは、このみことばから目が離せなくなります。主のしもべの背中にある傷から目を背けることができなくなります。その傷を見れば見るほど、私たちは自分の罪深い本当の姿を知ります。その傷の意味を知れば知るほど、私たちは自分がどれほど救いようのない状態であるかを知ることになります。しかし、そのことを痛感し、その事実を知る絶望の中で私たちは主のしもべのなした救いを知るのです。では主のしもべとは誰でしょうか。それは、十字架にかかって私たちの罪のために死なれたイエスキリストです。そしてその救いを信じる私たちは心の一番奥で、誰にも知られないような心の一隅でその救いを知ることになります。待降節に入ります。私たちは表面的な知識や客観的な事実としてではなく、私たちの救い主でイエスキリストの誕生を心の一番奥深い場所で待ち望んでいきたいと思います。



2023年12月10日

「その名はインマヌエル」

犬塚 契牧師

しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。…その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。 <イザヤ書7章> 

 「インマヌエル」預言のイザヤ7章をゆっくりと読んでみて、なるほどここでのインマヌエルとは、「その子が物心つく頃には、今は脅威の2国は力を失っているよ」とのしるし以外の意味を見出し得ないと気付きました。インマヌエルとは、アハズ王の子ヒゼキヤのことでしょうか。二か国に攻められて窮地のアハズ王は、“大丈夫”のしるしを神に求めるように言われても、それを拒みました。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」謙虚に聞こえるその裏で、自分の策がすでにあり、更なる大国アッシリアとの話がついていたのでしょう。そこにインマヌエル預言が語られます。柱につける子どもの成長記録が先に彫られるかのように、この頃までに今の脅威は去りつつ、更なる脅威が待ち構えると。こんなイザヤ書の一節を700年後に切り出したのは、マタイでした。「神われらと共にいまし」に信仰を重ねました。旧約と新約と私たちの今を統合する必要があります。私たちの信じ、求める無数のしるしは、勝手な物語のでっち上げではありません。生かされることを知る謙虚な信仰の作業です。



2023年12月17日

「大いなる光」

犬塚 契牧師

闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。     <イザヤ書9章1-6節>

 「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」(8:23)という状況の続きから9章を読みます。するとこのイザヤの預言は、高らかに聞こえつつ、それはまだ誰も見ていない有り様であり、それはまだ実現していないのだと知らされます。なお軍靴の足音が聞こえ、軍歌の歌が聞こえます。4節「地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた」。今、日本の裏側で起きていることと重なります。現代のイザヤならばこう記されるかも知れません。「殲滅を至上命令とするイスラエルの兵士、名前が書かれた腕だけが残される遺体、試し打ちのごとく銃弾に倒れるガザの市民、震えと涙がとまらない家族を失った子供たち、安全のはずの学校に飛来するミサイル、地下トンネルの存在を疑われて破壊される最大の病院、地下トンネルに流される大量の海水…それらはいっさいが終わりとなり、終焉となる」。そんな預言となるでしょうか。しかし、震えるような無力感を抱きつつ、暗澹と共に現実を見つめるならば、それはまだなのです。▲ただイザヤ9章は絶望を突き破るように語られます。「あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った」。あなたは…あなたは…と呼びかける預言者は、まるで一人違う国で過ごし、違う時間を生き、違うものを見ているかのようです。これは預言なのでしょうか、むしろ賛美なのでしょう。一日、一日なお暗さが増していく季節を過ごしています。昨日よりも今日、今日よりも明日…暗くなっていきます。ただまもなくそれが入れ替わります。クリスマスです。



2023年12月24日

「その日を待ち望みつつ」

犬塚 契牧師

まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。…主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。 <イザヤ書25章1-9節>

 イザヤ書24-27章がイザヤの黙示録と呼ばれているのは、内容を読めば納得もします。ヨハネの黙示録と言葉も多少重なります。ただ、はたと預言と黙示とはどう違うのかと考えます。神の言葉を預かり語るか、神の御想いの啓示か…。25章の時代背景の特定は難しいようです。それでもなお、ユダヤ王国の状況は、依然厳しく、貧しく、虐げの中でした。ゆえにこんな預言が、黙示が、啓示が語られるのでしょう。それは大きな広場で大きな声でと言うよりも、壊れた瓦礫の片隅で小声で語られ、響き、広がったように読んでいます。きっと今、日本の裏側で起きている戦争のニュースに触れているからです。驚きは、そんなに弱く貧しく逃げ場も知らず、暑さと寒さに震える人々から、「すべての民」の祝宴の様子が方られっることです。虐げられている民が「自国のみ」の解放、繁栄を優に超えて、「すべての民」との祝宴を語ることは何と難しいことでしょう。この時代から2000数百年を経て、更に人口が増加した現代は良くが複雑に絡み合って、解決が遠のいています。こんな「おとぎ話」が必要なのだと思います。いまだかつて「おとぎ話」が生み出されなかった時代などなかったと読みました。それは崩れ去るものの中に残り得る希望です。そんな希望の裏打ちは神の御想いです。「これは主が語られたこと」 



2023年12月31日

「永遠の命、それは闇の中の光」

草島 豊協力牧師

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」 <ヨハネによる福音書3章16−21節>

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」の「永遠の命」とは何か?今年の夏に一人の友人が天に召された。治療中の彼のSNSの投稿には、何気ない毎日の一コマが描かれていた。朝おきて妻の顔があり、しあわせを実感すると神に感謝。また、ふと見かけた一輪の花のいとおしさを喜び、娘の成人式を迎えられた、ただその事への感謝。しかし言葉と言葉の合間には悪化する病気への不安、ときには苦痛も。本当に何の変哲もない日常の一コマに思いを込め、心をふるわせている彼の言葉を読んでいて気づいた。ありきたりの日常の一瞬も、彼にとっては凝縮された瞬間なのだ。「彼は永遠の命の中に生きている」と。「永遠の命を得るため」の「得る」の単語は、むしろ「持つ」とか「保つ」と通常翻訳される言葉。迫害の中、信仰が揺いでいる信者たちへの励ましの言葉だ。永遠の命を持つとは「神は働いていない」と思っても不思議ではない状況で、神はいまここで私に働いている、私は神の恵みの中にある、という思いに留まること。あるいは神が働いていることに気づかない中で、いまここに働いていることを知らせてくれる光、日常に差し込む光、闇の中に輝く光を受け続けるということ。力によって自分たちの思いを通そうとする動きが世界中で渦巻いている今こそみこころを求めるとき。永遠の命を持つとは、心を研ぎ澄ませて、いま、ここに、神が働いていることを信じ、深まりつつあるとさえ思える闇の中に輝いている小さな灯火に目を留め、あきらめないこと、屈しないこと。たとえ今何をすべきか分からなくとも、必ずや聖霊が何を語るべきか、何をすべきか、教えて下さる。だから、このクリスマスの今日この時、小さな小さな灯火をとおして働かれるこの神の温もりをまずはいただこうではないか。




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