巻頭言
2022年12月


2022年12月4日

「立ち上がるイエスさま」

犬塚 契牧師

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。<ルカによる福音書4章21節>

 ルカによる福音書4章…。イエスキリストの宣教の要約のような個所です。これからもこんな反応と結末の繰り返しであり、それはやがて十字架刑にまで及びます。それでもこの記事が復活を知った者によって書いているゆえ、悲しみの序章とは響きません。主イエスキリストの伝道の始まりと故郷ナザレでの宣教において、いつものとおり安息日に会堂に入って、聖書の朗読がされました。会堂の管理者に持ってきてもらったのは、イザヤ書61章でした。当時はまだ章も節もない巻物でした。読まれたのはその一部で、絶妙に「神の報復」までは読まずに閉じられたようです。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」50年に一度の大解放の個所でした。イザヤが語った朗読者とその解説者はいつも同じとは限らなかったようですが、この日はイエスキリストに視線が集まります。そして、言われます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。▲あら〜いっちゃったぁ。言い切ってしまうと後々の責任問題になりかねません。断言してしまうとその証拠を提示するように言われかねません。大口をたたいたと思われ、何様のつもりかと嘲笑されかねません。「この人はヨセフの子ではないか。」そうなってしまいます。▲実際、ナザレの人たちは、言葉の裏付け、証拠を求めたようですが、故郷で何もなされないことを知って殺意すら沸いたようです。幼馴染の機転か家族親族の協力か、なんとかその場から離れることができました。▲それでも、この宣言が底知れぬ慰めをもっていると思えるようになりました。本当に実現したのでしょう。実現しているのでしょう。欠けや不足の向こうから漏れてくる恵みの淡い光に時々気づきがあるのです。



2022年12月11日

「ヨハネ誕生の約束」

犬塚 修牧師

「恐れることはない。ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。」 <ルカによる福音書1章5〜25節> 

 クリスマスは、ヨセフとマリアという年若い二人からではなく、ザカリヤと妻エリサベトという老夫婦から開始する。この二人の間に産まれたヨハネは、イエスを神の御子と証言する偉大な人物となった。二人はイスラエルの父祖アブラハムと妻サラのような存在と考えられる。▲ザカリヤ(主は覚えておられる)の不信仰―妻は不妊であったので、長い間、熱心に子供の誕生を祈り続けたが、空しく時が過ぎ去るばかりであった。二人は失望落胆し、生きる意欲も失っていたかもしれない。けれども、主はその切実な祈りと願いを忘れてはおられなかった。そして、ついに時が満ちて懐妊するに至った。だが、喜ばしい知らせを受けたザカリヤは、どうしても信じられず「何によって、それを知る事ができるでしょうか」と答えた。彼は自分の人生経験から「不可能」という結論を出したのである。私たちもそのようになりやすい。その結果、口が利けなくなった。この出来事は、彼にとって辛い現実となったが、実は恵みの日々でもあった。ヨハネの出産に至るまで、彼は深く自分の不信仰を悔い改め、静かに祈りつつ、待望と喜びを味わって生きた。静寂、沈黙の中で、信仰を磨いて生きた。そして、隠されていた神の恵みが、鮮明に見えてきて、ついに、自分が主の愛のみ手の中に刻まれ、生かされている事に気付いた。「見よ、わたしあなたをわたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49:16)とある。このみ言葉はイエスの十字架を思い起こさせる。主は激しい痛みを味わい、私たちの罪を赦し、暗黒と悪魔の力から救い出して下さった。▲エリサベト(神は誓われる)の歓喜―「神の誓い」はアブラハムへの祝福の約束である(1:72〜73節参照)。エリサベトは、長い間、恥を受けてきたが、神の奇跡的な憐れみによって「ヨハネ(主は恵み深い)」を産む母となった。神の祝福は永遠的であった。「あなたを祝福する者を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う」(創世記12;3) 現実がいかに厳しい状態であっても、神を信じる事である。神のみ言葉に立つことである。目に見えるものに支配される事なく、神の祝福の言葉に根を下ろす事によって、勇気と平安を抱きつつ、共に立ち上がっていきたいものである。



2022年12月18日

「イエス誕生の約束」

犬塚 契牧師

マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 <ルカによる福音書1章26?38節>

 恵みとは、分不相応に与えられるもので、そうでなければ報酬になります。かといって何もしないわけではなく、恵みにはどうしても「キャッチ」が必要だと読みました。きっとそうなのだと思います。両手ですくって飲まなければ、渇きは癒されないでしょうし、目を開けてみなければ絶景は見えないものでしょう。「当たり前に」に阻害されるのでなく、新鮮に恵みを「キャッチ」する感度を養いたいものだと思います。しかし、「あなたは神から恵みをいただいた」と聞いたマリアのうろたえに、恵みとは何なのかと改めて考えるのです。当初はその知らせは、恵みと分からないものでした。感情が沸くのでもないようです。天使が語る、歴史をまたぎ、永遠を臨む壮大なストーリーに対して、マリアの俗的応答は、彼女の葛藤そのものでした。「私は男の人を知りません」。マリアと天使のやり取りは、読む以上に時間がかかった対話だったと思います。長い黙考の時間が必要でした。同様に2000年後を生きる私も、マリアが受け入れ難かったもの、「キャッチ」しにくかった恵みを思います。▲「ナザレというガリラヤの町」…僻地に暮らす一少女が、天使の訪問を受けるなんて思っていないのです。「主があなたと共に」…そんな言葉を、吊り下げる短冊以上には受け止めていないのです。「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」…植民地下のユダヤが再び王を立てられるなんて、もう夢にもみないのです。「あなたは身ごもって男の子を産む」…結婚前の出産という危険がよい知らせに聞こえないのです。マリアは、きっと神の盲点を生きていると思っていたのではないでしょうか。神の目の届かない、支配の及ばない、手に触れない場所と場面に置かれていると。私にも同じように考える癖があります。しかし、クリスマスの知らせは、そんな私の固執を砕くものだと覚えたいと思います。



2022年12月25日

「マリアとエリサベト」

犬塚 契牧師

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。…「マリアの賛歌」…。 <ルカによる福音書1章39−56節>

 天使ガブリエルの受胎告知を受けてのマリアの応答は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」というもので、見事、天晴れと言えるでしょうか。しかし、その後すぐに親戚エリサベトのところに向かう姿から、なおも不安と恐れで居ても立っても居られなかったということでしょう。すぐに山里に向かいます。ガブリエルはそんな疑いのマリアを見逃しているようです。老年のエリサベトの奇跡的懐妊を間近に確認しなれば、震えは止まりそうもありません。エリサベトとの出会いの後で、はじめて恵みが恵みとなり、祝福は祝福となりました。そして「マリアの賛歌」が歌われます。▲1993年、クリントン米国大統領の前にラビンとアラファトが握手をし、中東の火種で起きた歴史的会談にノーベル平和賞が贈られました。南アフリカでネルソン・マンデラとデクラークが秘密に会談をして、アパルトヘイトに風穴があきました。アメリカ初の黒人大統領オバマが積極的な「平和外交」を行ったとして、平和賞が贈られもしました。「その時、歴史が動いた」のは、力ある者たちの動向の如何に関わると思っていました。しかし、あらためてルカ1章の田舎の少女と老婆の出会いによって、動いた歴史を思っています。本当は、こんな小さな出会いの物語の集積が歴史なのでしょう。様々が渦巻く世界にあって、二人が交わした祝福の言葉と賛美が真に世界を動かすのでしょう。「マリアの賛歌」が歌われます。「マリアの皮肉」や「悪態」でなくて…この小さな女性たちの優しく、良い言葉の出会いで歴史は動いていくようです。▲いやいや、この女性たちが生んだこの行く末をしるならば、二人の子どもの行く末、つまりは、ヨハネの斬首とイエスの十字架の結末を知るならば、この片隅で交わされた言葉のやりとりが、たとえどんなに美しいものであったとしても、まったく意味のない、荒波に瞬時に消える砂の文字にも思えるでしょうか。しかし、本当にしかしですが。世界を動かしたような歴史的会談を教科書に押し込めつつ、この二人の出会いは、今日もあちらこちらの教会で読まれ、覚えられ、歌われ、慰めを与えています。そんな不思議を覚えています。




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