巻頭言
2021年12月


2021年12月5日

「その日が来ると」

犬塚 契牧師

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。<イザヤ書11章1−10節>

紀元前722年、北イスラエルは、すでにアッシリアによって滅ぼされてしまいます。その様子を預言者イザヤは、南王国ユダで知らされていました。年表で見ればなんて事はない文字列の背後に、膨大な悲しみがあるのだと思います。戦争に負ける、国を失うという経験は、私には想像がつきません。80年前に生きた人たちなら分かるのでしょうか。南王国ユダもまたアッシリアの脅威にさらされつつ、滅ぼされることはなく、その属国となり、強大な軍事力に守られた平和の中にありました。ただ、カッコつきの「平和」でした。それでも人々は、しがみつき、どこか安心でもあったのかも知れません。イザヤはそんな「括弧」は、すぐにでも失われるのだと伝えます。アッシリアの支配下にある南ユダもまた徹底的に倒され、燃やされるのだと。後に新バビロニア帝国によってその通りになるのですが、しかし、11章。「エッサイの株からひとつの芽が萌いで…」とも預言をするのでした。切り倒され、燃やされた切り株から出るひとつの芽の希望を語るのです。ここはメシア預言と言われ、700年後のイエスキリスト誕生の予告といわれます。伝統的に読まれた通り、きっとそう読んでいいのでしょう。偽りの「平和」の否定と崩壊の預言。そして、真の平和のメッセージの描き方は現実の自然法則すら凌駕するかのように壮大なものでした。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に…」▲イザヤ書11章。「いつかこんな日が来るのかねぇ…」そんな淡い憧れでなく、荒唐無稽な「やがて」への逃避でもなく、混沌とした時代の中で、並外れた独裁者が支配する世界の向こうに、確かに神様の見えている視点があるのだという事実。そして、まるでその世界を生きてみないかという招きを聞くのです。



2021年12月12日

「戦うことを学ばないでよい世界」

犬塚 契牧師

終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい…彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。             <ミカ書4章1-5節>

イザヤ書2章にもこの有名な「剣を打ち直して…」の文言があり、国連ビルの「イザヤの壁」に刻まれています。イザヤとミカは同時代の預言者で、もともとはどちらの言葉だったのかが議論されています。剣や槍の武器と鋤とか、鎌とかの農機具を持ち出すあたり、ペリシテとの国境近くの田舎モレシェトに生まれたミカがオリジナルと思っていいのではと思っています。ならば「ミカの壁」が正解?ミカの出身地、危機感絶えないモレシェトの街とペリシテの街ガドがあわせって、「モレシェト・ガド」と呼ばれたことは屈辱的だったかも知れません。故郷追われたミカの預言は、3章まで厳しいものでした。しかし、4章。「終わりの日に」と始まる預言には希望が語られていました。通常、連続ドラマの最終話が幕を閉じて、「END」と出れば来週は放送されないものです。ならば、「終わりの日」は、終わりのはずではないのでしょうか。しかし、そこから希望が紡がれていくことに驚いています。▲この「終わりの日」とは、やがての終末の日と読まれています。多くの国々が神を礼拝するために神殿にやってくる壮大なビジョンと武器が農機具に変わる平和のイメージがあります。国連ビルの前に彫られるようなみんなの目標にもなりました。「終わりの日」を彼方に見据え、希望もまた届かぬ所に置いています。それは太陽が燃え尽きる前のことでしょうか。▲改めて繰り返し読みながら、「終わりの日」を今日に覚えています。今日、すでにもう終わっているのです。自分を見てそう思います。待つ必要など正直ないのです。ただ、その終わりの日が今日に見いだされて、なお希望が語れているとすれば、崩壊、綻びに内に神の御支配をいただきたいと願っています。そして、ようやく強ばる両手を離し、戦わなくてもよいことを知るのです。▲「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。



2021年12月19日

「彼こそまさしく平和」

犬塚 契牧師

エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。…彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い、我々の城郭を踏みにじろうとしても、我々は彼らに立ち向かい、七人の牧者、八人の君主を立てる。<ミカ書5章>

「今あなたは壁でとりまかれている。敵はわれわれを攻め囲み、つえをもってイスラエルのつかさのほおを撃つ。しかし…」(ミカ書5章1節口語訳)口語訳聖書には、状況や背景というべき1節が加わっていました。それを読むとイスラエルの王が受けている屈辱と包囲された様子が分かります。しかし、ベツレヘムで暮らす小さな一族エフラタから、「治める者」がでるという預言が始まります。危機の中の希望ですが、これを希望として聞けた人はどれくらいいたのだろうと思います。教会は、マタイによる福音書の引用を手掛かりに、このミカ書5章の預言の成就をイエスキリストに見出し、毎年クリスマスに読むのです。短い預言書を世界中の教会が、この時期に開く理由は、この5章1節ゆえです。「彼こそ、まさしく平和である」とは、そのままイエスキリストこそ…と読み替えるのです。▲ただ悩ましいことばでもあります。平和という言葉に心がうずくのは、それを心底知らないし、味わうこともないからだと思います。ミカの時代、いやそれ以前から今に至るまで、本当の平和を人間は得たことがありませんでした。子どもたちの兄弟ケンカは、「うるさい!」の父親の一喝で「平和」が一応戻ります。日本大学の理事長がお金を愛し、暴力団を頼りにしていたニュースが流れていました。大学にして、「剣はペンよりも強し」のようです。隣国の脅威が知らされれば、圧倒的軍事力が抑止となり、「平和」に不可欠だと言われます。一発で大国を黙らせることのできる「核兵器」の動向に世界の関心が集まります。家庭も大学も国も「強い力」が平和を作り出すのです。それ以外の方法あり得ず、21世紀まで創り出されてもきませんでした。しかし、ミカ書は「いと小さき者」から出る平和を語ります。▲まったく力なき者がただそのことを示すことによって、平和が訪れるという人の想像を超え展開が、神さまの秘策のようです。本当に、たまにこんな平和を味わうことがあります。



2021年12月26日

「神様の本音が聞こえる」

犬塚 契牧師

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 <ヨハネによる福音書1章>

「人は二番目に大切なことしか言わない」…そんな言葉を聞きました。きっとその通りでしょう。心にあるのは「悲しみ」であっても、言葉にするときには「怒り」に変わってしまうこともありますし、まだ言葉になっていないこともあるでしょう。一番大切なことは恥ずかしくて言えないこともあるかも知れません。きっと私たちの世界は、二番目、三番目の影に本音を隠し、なんとかやさしさを保って生きているのです。人と人の間は、それでよいのかもしれません。神の本音はどうでしょうか。人間はあらゆる方法で、神の本音を推し量ってきました。月が欠ければ不吉と思い、太陽が隠れれば怒りと理解しました。日照りが続けば犠牲をささげ、雨が多ければ理由を探りました。古代人たちを無知と笑えません。今も幼い子どもから、よい大人まで、天気予報と一緒に運勢を聞き、占いで先を見通し、風水で部屋を選び、六曜でスケジュールを考えます。神々の本音を探るのです。▲1世紀後半、ユダヤ教とキリスト教の違いが決定的になっていくにつれ、クリスチャンたちはシナゴーグから追いやられ、同胞の迫害が迫りました。またそれは、辛うじてローマ公認のユダヤ教から外れた新興宗教として、ローマ帝国によっても異端視されていくことでした。今、ヨハネの教会が立たされているのは、難しいところです。…村八分とは恐ろしい響きです。ここで、旗色を鮮明にすれば、きっと窮地に陥ることでしょう。だけど、この福音書は書かれました。ユダヤ人が大切にした創世記を初めに似せて書くには、覚悟が必要だったことでしょう。それでも新しい約束として書かれました。大胆に書かれました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」あー、言ってしまいました。だけど、やっぱり主イエスは神であり、 主イエスこそ見えない神の本音なのです。主イエスを見れば、神が本当に願っていること、思っていること、伝えたいことが分かる…どうして隠しておけようか。2000年前の信仰者の言葉が、化石化しているのでなく、生きているように響く不思議を感じています。




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