巻頭言
2020年12月


2020年12月6日

「だから、こう祈りなさい」

犬塚 契牧師

だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。 <マタイによる福音書6章9-13節>

観光名所のような揚げパン屋さんの行列に並んでいるとすでに食べ始めている中年のおじさんたち一行の話声が聞こえました。革ジャンとヘルメット…バイクのツーリング仲間のようでした。どうやらその内の一人が首を痛めたようです。すると一人交った青い目の外国人が首に手を当てて祈り始めました。日本語と英語を混ぜながらです。おー、ここで祈っているよ〜…一体どの宗教なのだろう?耳をそばだてていると、最後ははっきり聞こえました。“In Jesus name I pray amen”確かにイエスの名で祈っていました。1度では効果が薄かったようです。痛みの位置を正確に確認し、繰り返すこと3度。祈られていた彼が驚いて声を上げました。「あれ、痛くない。もう痛くない。」宣教師(未確認)は当たり前のことのように彼に微笑んでいました。▲人が祈りによって癒されるのを見たのは初めてではないし、聞いたことも多々あります。癒されることに疑いがあるわけでもありません。首が治ってよかったと思います。インドネシアの宣教師の娘からは、父が教会で悪霊を追い出すために祈ると椅子が飛んだと聞きました。嘘をつく人ではありませんので、本当でしょう。それでも浮かんでくる疑問は、日常の些細な祈り…コメが上手に炊け、メガネが見つかり、時間までに遅れず着け、恥を免れ…が聞かれ、揚げパン屋では首の痛みが消え、インドネシアでは椅子が飛ぶことがありながら、行方不明の子を探す親の祈りやもう少し生きるべき親の病の癒しも、内戦下難民の少女の懇願も容易には聞かれないように見えるということです。神様、なんだか順番が前後していないでしょうか。それとも、些細な祈りから叶えられるものなのでしょうか。惑いを生きています。▲主の祈りは世界で知られ、唱和されています。自由祈祷を重んじるプロテスタント教会においても、礼拝式の中に組み入れられています。東日本大震災の被災した教会、言葉をなくした場面で、主の祈りがあってよかったと聞きました。自由には言葉が出ない時、定型の祈祷文「天にますますわれらの父よ」と始められる幸いを感謝しています。父よ(幼児語アッバ)との呼びかけは子であることの確認になり得るでしょう。「御名が崇められますように」と続ければ、「つくられたもの、生かされているもの」と静かに心の港に戻るでしょうか。神の国、神の支配、神の御想い…存分に、どうか存分にと願うばかりです。「自分を退け、悔い改めます。」ヨブ48:6



2020年12月13日

「空しかった場所に」

犬塚 契牧師

アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。  <マタイ1章1-17節>

系図と訳されたゲネシス(geneseos)という言葉は、創世記(genesis)語源であるから、「イエス・キリスト誕生の記録」「メシア・イエス起源の書」「メシア・イエスの創世記」と書き始めている訳もありました。なるほど、そう読むとただの「系図」以上の広がりがあるのだと感じます。また、マタイ福音書の最後28章は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という主イエスの言葉で終わっていますが、ヘブル語聖書の最後も「神なる主がその者と共にいてくださる」(歴代誌下36章)とあり、同じテーマの言葉です。つまり、マタイは創世記から始まる旧約聖書をなぞるように刷新し、書き直すような気持ちがあったのではないかと想像するのです。イエスキリストによって始められる新しい創造を書き始めたのではないかと。なんだかオセロゲームで挟まれた駒が黒から白にひっくりかえるかのごとく、長い旧約聖書の成就としてイエス・キリストの出来事を記していったのではないかと思うのです。カタカナの羅列から始まった福音書の後ろに見えるマタイの思い入れは、そのまま神の御想いの反映です。▲書き出しのイエス・キリストとは、苗字と名前ではなく、最も短い信仰告白であり、誰が自分を救ってくださったのかを伝えています。恐ろしいばかりの磔刑で死んだローマの死刑囚“イエス”をキリスト(救い主)と告白することだけでも、世間知らずの笑い者であり、時には命懸けのものであったことでしょう。しかし、この告白は、いのちの預け先を真に知らされた人のものです。何でもって人生を装わせるのか、寄る辺なき者の希望の源はどこか。短く答えます。そして、この告白は2000年を経て、薄れ消えてしまったのでなく、今日も誰かが同じ告白をし続けている不思議は、思いのままに吹く風のような神の働きを裏打ちしています。▲ヨセフの系図には、族長や王もいれば、異邦人も娼婦も名を記されています。最後の人たちはもうどんな人であったのか分かりません。一族の栄光盛衰を見ていますが、それは、だんだんと細く、弱く、小さくなっていった歴史に思います。家系で成功して財を築いた者もいれば、子に先に死なれた者も、王もいれば、愚息もいる。約束もあり、奇跡もおき、移住もあり、スキャンダルも隠せない…。私たちの生きている場面と同じなのです。しかし、「このマリアから…」それは最後に切れてしまいます。人の限界と届かぬ淵の向こうを垣間見ます。もう届かない、繋げない、紡げない、続けられない…クリスマスはそこからでした。



2020年12月20日

「神我々と共におられる」

犬塚 修牧師

「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」  <マタイによる福音書1章18-25節>内23節

マタイは、苦しむ同胞イスラエルの民に対する危機意識を抱いて、この書を書き上げた。何としても、イエスの救いを伝えねばという一念がそこにあった。創世記は全人類の起源に関する事である。自分の民族の再創造も、同じ視点で思索していたと言えよう。(1)新しい人間として―アダムとエバは、恵まれた環境に置かれていたにも拘わらず、神を疑い、反抗し、原罪を犯してしまった。神の愛と真実への疑心暗鬼がもたらしたものは、絶望と劣等感、疎外感であった。生来の人間の性質は、これらを持っている。一方、ヨセフとマリヤは新しい人間の元型である。二人は過酷な状況下に置かれていたのに、神のみ言を真実なものとして、受け取り、かつ信じた。この決断が人生に希望と喜び、連帯感をもたらした。創世記の二人は罪を犯した結果、自分の罪や弱さや恥を知らされ、恐れて、木陰に隠れてしまった。しかし、ヨセフたちは、辛い現実を受容し、困難から、目をそむけようとはしなかった。そして、何が起こっても、愛の神は再創造し、良い将来を備えて下さると信じた。ステンドグラスは一度は砕けても、名匠は、その一つ一つの破片を取り上げて、以前よりも、もっとすばらしい作品を作り上げる。まことの神は、それ以上の事をして下さるお方である。その事を信じ、いっさいの重荷を神にゆだねる事である。(2)「 間」におられる神―私たちの神は、恐れさせ、責め、苦しめるお方ではない。私たちと共にいて、守り、助け、愛を注いで下さる恵みの主である。「共に」は「間に」という意味でもある。神は私たちの身近にいる他者ーーたとえば愛する人、または苦しめる人、または喜び、または重荷、苦悩などの「間に」おられる。もし、私たちが何かで深く傷つけられるのは、それは無防備のまま、裸のままで生きているからである。神が「間」に来られた事を忘れてはならない。この出来事がクリスマスである。神の御子イエスは、私達の間に来られた。飼い葉桶というむさくるしい狭い場所に来られた。飛んで来る火の矢の痛みや傷は、私達ではなく、イエスが受けられた事を信じ、感謝を捧げよう。私達は無事とされるのだから。感謝してイエスと共に生きていこう。



2020年12月27日

「神様のいるところ」

犬塚 契牧師

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 <マタイによる福音書2章1-12節>

東方の博士たちのクリスマス。星を目指して旅をして、いよいよ見つけたイエス様。マタイ2章のこの記事を昨年も読みました。振り返れば一昨年も3年前も4年前も…ずっとこの時期に読んでいるのです。まるで定点観測。しかし、変わるのは聖書ではなく、私自身です。問われるのは私自身です。かつてはメルヘンに聞こえ、おとぎ話に思えたこの個所です。少し前は、博士たちが宮殿でなく、ベツレヘムの片隅で生まれたことにがっかりせずに喜んだ理由が分かりませんでした。泣きながらおしっことウンチを垂れ流す赤子に贈り物を捧げた動機を懸命に探しもしました。今年、同じ記事を読みながら、分かる気がしました。これでよかったとも思いました。▲コロナ危機にさらされた今年でした。それ以外にも抗いようもなく1つ歳をとり、疲れやすくなり、血圧は高く、片頭痛があり、捻挫が治りにくく、老眼がきつくなりました。みんな去年より、弱く、もろく、低く、細くなりました。悲しみも増えました。それでも、私たちが、一枚一枚重ねていく悲しみは、ひょっとしたら悪いものではないのかも知れません。元気な時には保持できなかった、無邪気な子供時代、幼い時には留めておくことのできなかった「悲しみ」というものを まるで落葉が積もるかのごとく、一枚、また一枚とヒラヒラと重なっていくのを許せるというか、受け入れるというか、少し離れて眺めるようになりました。力抜けて、ジタバタができなくなっただけかも知れませんが。ヘンリーナーウェンがこんなことを書いていました。「どんないのちのかけらも、死がほんのすこしでもふれていないものはないということが身に染みて分かってくると、わたしたちの存在の限界をこえた先にまなざしを向けるようになります。だれも奪い去ることのできない喜びによって私たちの心が満たされるその日を期待しつつ待ち望むようになるのです。」(待ち望むということ)▲今年もまた同じ記事を読みながら、幼子に触れて喜びに満たされるくらいに渇いていた博士たちの心と彼らが辿った長旅に心が向けられています。随分の渇望と限界の中で、だからこそ響く神様の言葉のトーンがあるようです。今年、改めて読みながら、これでよかった、これでよかったと何故か思うのです。




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