巻頭言
2019年12月


2019年12月1日

「主の日」

犬塚 契牧師

見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。           <マラキ書3章19-24節>

預言書が分かりにくいのは、3つの時制に重なって預言がなされているからのようです。「今」、「後」、「さらに後」のことが一つの預言の中に内包されているので、いつ起こることなのか、どのことなのか理解しがたいのです。預言者たちの生きた時代の人々にも励ましになり、後の時代にも教訓を超えて、新鮮な希望になるような預言に驚いて読んでいます。人は時の流れと共に物事を理解していくし、そうでないと分からないものですが、神様の視点が時を超越しているのだと預言書を読むと気づかされます。▲マラキ書を書かれた当時の預言がどのように「後」に成就したのかを考えてみました。浮かんだのは、ヨハネ8章の姦通の現場で捕らえられた女性です。「見よ、その日が来る」(マラキ3:19)…彼女にとってその日、裁きの時が来ました。しかし、彼女を連れてきた人たち、「高慢な者」も「悪を行う者」もその人を迎えるのです。主イエスは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」誰も石を投げることができませんでした。皆がその場から去りました。「根も枝も残さない」有様です。女性一人が主イエスと残されました。裸同然に震える彼女は、「その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る」の意味を知ったのだと思います。マラキ書の時代から「後」の預言をそう読んでみました。そして、「さらに後」の裁きの日を思っています。「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている…」(へブル9:27)その日、私たちはもう一度主イエスが十字架に架かった出来事を心底知らされるのだと思っています。そして、その御思いにやはり心底震えて賛美に変えられるのです。



2019年12月8日

「キャッチ」

犬塚 契牧師

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 <ルカによる福音書1章26-38節>

恵みとは、分不相応に与えられるもので、そうでなければ報酬になります。かといって何もしないわけではなく、恵みにはどうしても「キャッチ」が必要だと読みました。きっとそうなのだと思います。両手ですくって飲まなければ、渇きは癒されないでしょうし、目を開けてみなければ絶景は見えないものでしょう。「当たり前に」に阻害されるのでなく、新鮮に恵みを「キャッチ」する感度を養いたいものだと思います。しかし、「あなたは神から恵みをいただいた」と聞いたマリアのうろたえに、恵みとは何なのかと改めて考えるのです。当初はその知らせは、恵みと分からないものでした。感情が沸くのでもないようです。天使が語る、歴史をまたぎ、永遠を臨む壮大なストーリーに対して、マリアの俗的応答は、彼女の葛藤そのものでした。「私は男の人を知りません」。マリアと天使のやり取りは、読む以上に時間がかかった対話だったと思います。長い黙考の時間が必要でした。同様に2000年後を生きる私も、マリアが受け入れ難かったもの、「キャッチ」しにくかった恵みを思います。▲「ナザレというガリラヤの町」…僻地に暮らす一少女が、天使の訪問を受けるなんて思っていないのです。「主があなたと共に」…そんな言葉を、吊り下げる短冊以上には受け止めていないのです。「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」…植民地下のユダヤが再び王を立てられるなんて、もう夢にもみないのです。「あなたは身ごもって男の子を産む」…結婚前の出産という危険がよい知らせに聞こえないのです。マリアは、きっと神の盲点を生きていると思っていたのではないでしょうか。神の目の届かない、支配の及ばない、手に触れない場所と場面に置かれていると。私にも同じように考える癖があります。しかし、クリスマスの知らせは、そんな私の固執を砕くものだと覚えたいと思います。



2019年12月15日

「心配しなくてよい」

田口 祐子神学生

このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 <マタイによる福音書 1章18-25節>

恐れずにマリアを迎えなさいと告げられたヨセフ。彼は正しい人、と書かれていますが、ここで言われる正しいとは神と良い関係を結んでいる、という意味も。ヨセフもマリアも決して特別な人間ではありません。悩みも恐れもある。神の子どもを育てる責任を抱え、また愛し育てた子が十字架にかかる、親としては複雑で大きな悲しみを経験しました。神の存在を知ったとしても人生いいことばかりではありません。でも、神との正しい関係を持っていると、たとえ苦難の中、不安の中でもその時を神がともに歩んでくださる、また責任をとってくださると信じることができる。それでも心細いわたしたちに神様は聖書の言葉を通して励まします。あなたがたに救い主が来る、その方はいつでもどこでもあなた方とともにおられる方だと。その方はイエス様。イエス様こそ寄り添いのプロでした。宮澤賢治の雨ニモマケズはキリスト者のモデルがいたようですが、その姿はイエス様に似ています。イエス様はユダヤ人ですから肌も浅黒く、大工でもあったのでがっしりとした人だったかと。丈夫で働きもの、ご自分は寝る場所も決まっておらず、誰かが病気で治してくださいといえば出向いて癒し、救い主を待ち望んでいる人たちを見て哀れに思い、悲しんでいる人と一緒に涙を流し、空腹の何千人もの食事を用意した。それなのに、最後はデクノボー扱いされ十字架につけられた。わたしたちの王、キリストは救い主らしからぬ家畜の小屋をわざわざ選んで生まれました。汚れた場所はこの世の象徴でしょうか。この世に来てくださった理由はただ一つ、わたしたちを愛するが故です。イエス様の十字架は身代わりというよりは、イエス様による抱擁。わたしたちが神様から一度離れたことは重々承知の上で、抱きしめられ、こちらに帰ってこい、と言うためにこの世にこられたのです。この愛に応答し共に平和を求め、失っていた神の国をわたしたちの心に呼び戻そうではありませんか。神様に従おう、人を愛そうとするとき、わたしたちのところに神の国は来ているのです。



2019年12月22日

「羊飼いに届いた招待」

犬塚 修牧師

「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町であなたがたのために、救い主がお生まれになった」  ルカによる福音書 2:8〜20 <ルカによる福音書 2章8-20節>

全人類に与えられるメシヤ誕生という大きな喜びのお告げは、貧しく弱い羊飼いたちに与えられた。彼らは寒空の中で、差別と不自由さと窮乏状態にあった。彼らこそ、神が最も愛される存在であった。私達が神と出遭う所は、貧困、孤独、心配、差別等の「苦しみ」という狭い場所でもある。もし、今、辛い所にいるならば、そこは幸いな聖なる地となるのだ。▲「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、み心に適う人にあれ」と天使達は大讃美をした。「み心に適う人」とは、羊飼いのような人々である。彼らの周りには「天の栄光が取り囲んだ」とある。栄光は元々、いと高き所にあった。天で輝いていた光が、惨めな羊飼いに届いた―これがクリスマスなのである。私達は自分がこの光に包まれている事を確信し、喜びを持ちたい。神に信頼する人の心は、天から来る平和で満たされる。▲不安の感情の克服―不安は平和の反対語である。もし、今まで自分が行ってきた人生を省み「これで良かったのか?」という疑問文が沸いてきても、「これで良かったのだ」という断言文に書き換える事ができる。なぜならば、イエスのご聖誕によって、私達の全ての罪が赦され「神にあって、万事が益となる」(ローマ8:28)という新しい恵みの世界に招待されている。▲自分が相手を傷つけたり、傷つけられたりする事に関しては、何とか乗り越える事ができるかもしれない。信仰があるからである。しかし、これは自分の心の世界の問題である。どうしても、苦しみがなくならない深刻な問題や不安もある。それは他者の苦しみである。自分が何とかしてあげたいが、実際は何もできない苦悩である。たとえそうであっても、クリスマスを迎えた私達には、全く別の大きな喜びがある。それは、一切を主にゆだね、徹底的に「神に期待する道―祈り」である。人間の力ではなく、生きたまことの神に期待したい。12月4日、アフガンで殺された中村哲さんは、クナール川から25kmも離れたガンベリ砂漠までの大用水路を造り上げた。それは気が遠くなるような難事業であったが、ついにやり遂げた。彼は祈りつつ、諦めず、コツコツと掘り続けたのである。不可能を可能と信じながら、支援してくれる人々と共に。イエスを仰ぎながら。



2019年12月29日

「喜びの質が変わった」

犬塚 契牧師

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 <マタイによる福音書2章1-12節>

星が先立って進み…彼らはひれ伏して幼子を拝み…。そう書かれても、御伽噺なら全く問題ないと思います。しかし、イエスキリストの誕生のシーンに現場に居合わせなかった者への配慮が足りないのではないかと思うのです。「星」だと雰囲気は出ますが、なんだかリアリティに欠けませんか。「幼子」だけだと和みはするでしょうが、圧倒するような迫力に足りなくありませんか。この出来事を読む後世の誰もが「はてな?」をいっぱい浮かべてしまいかねません。その家を特定できた理由、幼子を拝することに至った経緯、その決め手、それらをぜひ、もっと詳細に記しておいて欲しかったのです。はるばるユダヤ人の王を探す旅をして、王宮に見つけられず、ふさわしくないような場所で出会いながら、なお喜んで拝した理由が知りたいのです。▲ふと、これが神だ、神にふさわしいと認める権利や資格を人は持ち合わせてはいないのだと思いました。マタイ2章のクリスマスに向き合いながら、私は、明確な神たる証明を求めているのだと気づかされています。納得させてほしい、説明してほしい…きっともっと乱暴で「神ならば神らしく」との性急さがあります。それは十字架上で民衆も宗教的指導者も犯罪者も求めたことでした。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。また、弟子たちもそうでした。有史以来、神は甘んじて人間から突き上げられているように思えます。▲思えば、旧約聖書の登場人物たちは、みな意外な場所で神と出会っています。それぞれ、ここには神はいないだろうという場でした。人が描く神の自己証明の場所とはまったく違うところから、人は神に膝折れるようです。それは一般化できるようなものでも、マニュアル化できるものでもなさそうです。▲このクリスマスに考えています。人の思い描いたところにいない神は、むしろ思いがけないところにおられる神ではないでしょうか。そして、思いがけないところにおられる神とは、今もここに伴っておられる神ということではないでしょうか。「主よ、いずこに」という渇きのそばにこそ、「インマヌエル」(神われらとともにいまし)が聞かれるのだと心得たいのです。見えず、聞こえず、感じず、書けず…その場もまた変わりなく神の居場所です。




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