巻頭言
2018年12月


2018年12月2日

「新天新地」

犬塚契牧師

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。…そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる。彼らは家を建てて住みぶどうを植えてその実を食べる。 イザヤ書65章17-21節

イザヤ書65章の背景を思います。新しい天と新しい地の預言の真逆の出来事が起きていたのだと思います。若死にする人が多く、長寿は全うされず、100歳を超えることなどありえず、苦労して建てた家は他の人が住み、ぶどうの実は奪われていく…。理上尽な労働があり、生まれた時から恐怖に脅かされている有様です。それはかつての話ではないようです。今もまた世界の有様に目をつぶることのできないジャーナリストたちが、各地の様子をルポにして報告してくれますから、悲しみの一端を知ります。同じ時代の同じ星に起きていることなのだろうかと無力を感じる時です。諦念、諦観がよぎります。あきらめるとはあきらかにするとの意味だと聞きました。もとはもっと積極性のもった言葉だと。しかし、あきらかにされた事実も、また両手に余るように思えます。▲「創造する《(バーラー)とは、神を主語にする以外にない言葉です。イザヤ書から、諦観の世に響く神のビジョンを聞きます。神はあきらめていないようなのです。むなしく散るマニュフェストではなく、神の気休めでもなく、天地創造の神が新しい天と新しい地をまた創造されると語ります。▲新天新地とは、どこにあるのでしょうか。やがての世界のでしょうか…。大病にあった信仰者からメールをもらいました。「癒されるにしても、癒されず病と共に生きるにしても、そして召されるにしても、病を通して、いのちの回復、主に造られた者として、自らを回復する道のりを経験させられ、今もその途上にいます。」読みながら、すでに新しい地をに足を置いているのが見えるようでした。創造の神は、新しい創造を今もどこからでも創められます。



2018年12月9日

「神の居場所」

犬塚 契牧師

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」         <マタイによる福音書28章16-20節>

ユダヤの政治的、宗教的中心であったエルサレムで主イエスと弟子たちが、旗を揚げてから、十字架刑までほとんど時間を必要としませんでした。やがては左大臣か右大臣かと望んだ願いは叶わず、入場から磔刑までのわずか一週間が瞬く間に過ぎました。そして、弟子たちは、異邦の地と呼ばれたガリラヤに戻ります。戦いに敗れた落ち武者たちのイメージが浮かびます。しかし、主イエスとそこでまたまみえることになっていました。指示された山がどこであるかは上明です。山上の説教をした広がる丘なのか、変貌の山なのか、あるいは何か象徴か、教会のイメージか。主イエスに出会った彼らは、復活の主の前で礼拝を始めました。…なお疑いを混ぜながらです。「しかし、疑う者もいた《福音書の最後に記されたこの一文はない方が美しい終わりとなったことだと思います。引き下げるようなことは、編集でカットすべきではと思います。しかも、この疑う者は単数ではく、複数のようです。しかし、疑いの目をした弟子たちの礼拝に見切りをつけない主イエスキリストの姿があります。「イエスは近寄って来て…《。信仰者たちの上信仰に焦点を宛てたならば何も宣教は進まなかったでしょう。主イエスの愛がある迫りに今日の信仰の歩みをあることを覚えるものでありたと思います。主イエスの言葉があります。「わたしは天と地の一切の権能を…《少し前にローマの暴力に負けて犯罪人として処刑された人の言葉でしょうか。少し前に横穴の墓に葬られた人の言葉でしょうか。


2018年12月16日

「マリア」

草島豊牧師

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの吊はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと吊付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。《天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。上妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。 <ルカによる福音書1章26-38節>

マリアと聞いて思い浮かべるのは、聖なる母、包容力があり、愛情深く、敬虔な信仰、そんな姿だろうか。天使に対して「御覧下さい。私はあなたの僕です《と答える姿は従順に従う姿だ。しかしマリアはその後急いでエリサベトのところへ向う。あたかも天使の言葉を信じられなかったかのように。そして、エリサベトの胎内の子が動いて「この子も喜んでいる!」と彼女から言われてようやくマリアは賛美をする。彼女の中に戸惑いや葛藤があったのではないか。マリアの姿は一人の人間として、神の前で自分の人生と格闘しながら歩んで行く信仰者の姿だ。  38節の言葉も、むしろ「さあ私を見て下さい」「あなたは私をご存じです《と行っているように思える。つまり「神さま、あなたは私がどんな者かご存じでしょう。こんな私です。こんな私でいいのですか。…分かりました。わたしはあなたの僕です。私を全部ご存じのあなたが、そうなさるなら、あなたに従います。」というように「御覧下さい。私は主の僕です」という言葉の中には、葛藤、告白、決意も込められているのではないか。  マリアの身に起きたこの出来事は片田舎のナザレの一人の少女の前に突如立ちはだかった大事件。彼女の前には大きな困難がいくつも立ちはだかっている。宮殿の王妃でも祭司の妻でもない、ありふれた一人の少女マリアは神の導きに従う覚悟をした。しかしそれでも恐れや戸惑いがあり、信仰の動揺もあった。決して特別に優秀というわけではないマリアを選んだのは神。彼女は自分の信仰を揺さぶられながらも、神が与えた運命と格闘して歩んで行った。その彼女を神が支えられた。私たちもマリアのように、けっして特別な身分でもなく、揺るぎない信仰を持っているわけでもない。時に理解のできない出来事を前にうろたえ、時に試練を与えた主を怒る、そんな私たちと主は共におられる。



2018年12月23日

「ヨセフとマリアのクリスマス」

犬塚 修牧師

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(23節) <マタイによる福音書1章18-25節>

「理不尽」(道理に合わない、無茶苦茶である)という言葉がある。どんな努力しても見返りも報いもなく、逆に裏切られたり、恨みを買ったりする時がある。全身全霊を尽くしても、うまくいかない事もある。そんな辛い事が続くと、心は暗く沈んでいく。ヨセフとマリアは楽しい結婚生活を夢見ていたが、思いがけない悲しい出来事が生じた。何とマリアが姦淫を犯したというのである。(実は誤解であったが……)当時、姦淫の女は石打ちの極刑が待っていた。そこで、彼はマリアを愛するがゆえに、その命を救うために離縁を決意する。20節に「このように考えていると」の「考える」は「激怒」の名詞から生まれた動詞なので、ヨセフは理不尽な出来事に対して、激しい怒りに震えていた事が分かる。そのヨセフに対してみ使いは「恐れないで、妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだ」と告げた。▼聖霊による−私達は目の前の重い現実に心が乱されてしまう。しかし、すべての出来事の背景には、聖霊の支配があるのである。固い信仰によって、その現実を受け入れ、厳しい中にも神の聖なるご計画を信じ、忠実に忍耐強く従い続ける事である。その名は「イエス」(主は救い)と命名される。このイエスが働いて救いを成し遂げられる。▼全体から個へ―「この子は自分の民を罪から救う」(21節)「民」は「神の民、キリストの教会」の事である。また「インマヌエル」は「我と」ではなく「我々と」という信じる者の共同体の意味である。私達はどうしても、今、自分が直面している問題を、何としても解決したいと願う。そして次第に神の事は後回しになりやすい。しかし、神の救いのみわざは、教会や世界との関わりの中で、開始される。ます森を見て、次に木々を見る事である。神の救いのみわざには秩序と順番があるのである。個人的な問題の解決は「まず神の国と神の義を求める」(マタイ6:33)という真摯な生き方から始まるのである。


2018年12月30日

「もう十分」

犬塚 契牧師

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」マタイによる福音書2章1-12節

12月は、教会学校でも礼拝でも、1-2章の前に、マタイ28章を最初に読みました。本の読み方としてあまりない順番でした。しかし、良かった。どの場面も最後の言葉「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。《へ向かっているのが分かりました。マタイの筆遣いは、主イエスキリストの息遣いと重なり、さらに先に神様のお心が透けるような思いがしました。迫害下、息を殺して書いたであろう福音書は、力ない自問自答で終わることなく、確かに世界の主が誰であるかを描き出しています。最も惨めな死に方であった十字架刑で死んだローマの囚人イエスが、それほどの時を要せずに、「天と地の一切の権能を授かっている《と語りました。それはマタイの受け止めたもう一つの現実でした。マタイの救い主であるイエスキリストは、神でありましたが、かなたの神ではありませんでした。マタイは地に生まれた神を信じました。その神は、理上尽を知っており、悲しみを背に受け、白い眼を味わい、嵐の湖を文字通り知っています。共に食べることを喜び、大酒のみと言われるほどに笑うことも知っていました。痛みに共感し、人が病む姿をほおっておかれませんでした。釘のついた皮の鞭が耳元で鳴る音とで打たれる痛みも愛が報われないように思える孤独もすべてを飲み込んでしまうような死の恐れも知っていました。そして、葬られる墓がどんなであるのかを死を知っていますし…一度、死んだことがあります。しかし、なお死は最後の勝利を宣言できませんでした。復活の主イエスがおられます。主イエスキリストは今日も私と共にいる―主イエスこと私の王である。 マタイの知らされた神の物語です。クリスマスは、その物語の始まりです。



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