巻頭言
2017年12月


2017年12月3日

「人は栄光の中に救いを求め 神は苦難の中に救いを示す」

草島 豊牧師

見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。 <イザヤ書52章13-53章12節>

人を救うものは何か。今日のイザヤ書の箇所は、バビロンの地で捕囚の中にある人々に語られた預言者の言葉。人々は捕囚の地で、経済活動などある程度の自由があり、それぞれ仕事を持ち生活していた。しかし神殿は無残に破壊され神殿での礼拝はもうできなかった。 この捕囚という事件は人々に信仰の危機をもたらした。それは自分たちの信じてきた主なる神がバビロンの神に破れたのではないかという疑問または自分たちは神から見捨てられたのではないかという戸惑い。混沌として希望が見えない中で、預言者は「新しい創造」と「新しい出エジプト」を語った。それはふたたび主なる神を中心に自分と世界を見るのだという預言者の決意でもあっただろう。そして「苦難の僕」としての救い主の姿。不条理を負い、人々の罪を代わりに負うメシアの姿。とことん惨めな姿。全く新しい視点で救いが描かれている。何が人を救うのか、力による世界の支配ではなく、むしろその真逆。この僕は弱さと惨めさの極みの中で、徹底的な弱さによって逆に、神の業のものすごさを示す。弱ければ何もできないのではなく、徹底的な弱さが世界を変える。  しかしこの預言が語られて後どうであったか。人々はエルサレムに帰還し神殿を再建する。律法を厳格に守り、自ら神に対して義を示そうとし、その熱心さは分離を生み出した。ユダヤ人と異邦人、敬虔なユダヤ人と劣ったユダヤ人。結果として救いから排除される人々を生み出していった。イエスのメッセージはこの排除された人にこそ注がれている神の愛だった。私たちはどうか。いつの間にか「信仰」という名の「義」を神の前で必死に立てようとしていないか。自分の中に信仰という名の「力」を求めていないか。「信仰」は人の所有物ではなく私と神との関係である。神に従う姿はひとり一人異なり、そこに神は働いている。



2017年12月10日

「招待礼拝とクリスマス」

犬塚 契牧師

先週は、招待礼拝があり、123名の方々と礼拝を捧げることができました。和泉短期大学チャプレンの西田恵一郎先生が「隠れたる神」と題して、イザヤ書45:14-17から、宣教くださいました。エリ・ヴィーゼルが書いたアウシュビッツの例えも用いて、うちに(in)おられる神を静かに、力強くお話くださいました。沈黙の内におられる神、慰めにならぬところに慰めを与えられる神…心の深くに届くように教えられました。しかし、800字の週報原稿依頼を忘れてしまいました。ごめんなさい。クリスマスの時期に思い出す詩を紹介いたします。 ■大きな祭りの前のことだった。神の像がこれから町に入って来る。象もパレードの準備をし、婦人たちもサリーで着飾る支度。そこに、神殿を掃き清めている小さい老人がいた。神殿の祭司がやって来て、祭りの準備をしろとせき立てた。「神がおいでになるのだから」と。老人は言った。「そんなはずはない、ここには来られない。」さて、その重要な日を迎えた。パレードが始まり、象も加わり、音楽も鳴り出した。花もたくさん飾られ、着飾った人が繰り出した。一方、例の老人は、相変わらず掃き掃除していた。祭司は、「もうパレードが始まっているから、早く見に行きなさい」と老人に言った。 しかし、彼は断った。「なぜだ」と祭司が問うと、「自分の家に帰らなくてはなりません」と彼は答えた。「何しに行くのだ」とさらに祭司が聞くと、「神が私に会いに家にいらっしゃるから」と老人は答えた。祭司は、「おまえのような貧しい者のところに、神がおいでになるものか」と言って、大笑いをした。するとこの老人は、天を仰いでこう言った。「貧しい者を訪ねて来るのは、神以外いません。」 <タゴールの詩>



2017年12月17日

「何によってわたしはそれを知るのですか」

犬塚 契牧師

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。 <ルカによる福音書1章4-25節>

アドベント(待降節)を数えて2週目です。語源のラテン語“アド?ベントス”は、アド=「どこどこへ」-ベントス=「向かう」という意味だそうで、なんだか待降節の「静かに待つ」イメージとは少し違います。英語のアドベンチャーの由来なのも、意外なことです。幼い時のアドベンチャーはワクワクしました。体の可動域と増えた体重といくつかの心の古傷が邪魔をして、アドベンチャーに心傾けて生きることが難しくなってしまった気がします。寂しいことです。今更の未知に、どうやら不安を感じるのです。▲イエスキリスト誕生の半年前に最後の預言者ヨハネの誕生がありました。ルカはクリスマス物語をそこから始めます。年老いたザカリアとエリサベトに初めての子が誕生するという知らせを天使が告げます。「ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き入れられたのだ」(口語訳)。しかし、いったい、いつの祈りのことでしょう。それは、若い時の夫婦の切なる願いでした。きっと、時の間を惜しんで真剣に祈ったことでしょう。やがて、もう難しいだろうと思い始めて、だんだんと声が小さくなり、頻度が少なくなり、老夫婦は他の導きを感謝するようになったと思います。しかし、今更のアドベンチャーが始まります。ザカリアは不安を感じ、「そんなことは信じられません。」(リビングバイブル)と疑います。当然の心の動きでした。▲アドベントはただの待機時間ではないようです。ここ最近、体…心の傾きということを考えています。ヨハネは喜びの中で誕生し、父の名を踏襲せず、祭司にもならず、自由に荒野で預言する人となりました。時の施政者にも忖度することなく、厳しい言葉を重ね、時の人となり、多くの人を悔改めに導きました。そして、逮捕と斬首までをルカ福音書は伝えています。書きすぎです。…だとしても、「喜びと楽しみ」の人の生涯の始まりを伝えます。そこに遠慮は見られません。神の物語を知る信仰者は、なお喜びで人生を見通すことができるのでしょう。少なくともその傾きで生きたいと思うのです。



2017年12月24日

「主は貧しくなられた」

犬塚 修牧師

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためであった」 <Uコリント8章8節-9節>

神の御子イエス・キリストは冷たい石製の飼葉おけで生まれた。そこは貧しさの極致とも言える。私達の主は、人々から人間扱いをされなかった。主は人間の世界では、受け入れられず、疎外され、無価値なものと見なされた。人間の罪や傲慢が神の御子を卑しいものと見下したのだ。しかし、それはイエスのみ心でもあった。主は私達の口惜しさ、屈辱感、惨めさ、後ろめたさ、恥辱、罪、弱さ、精神的など、すべて私達を苦しめるものを自ら、背負う事を決断された。私達に対する至高の愛のゆえに。主は、私達があらゆる傲慢さと絶望から解放される為に、自らが命を捨てる事を選ばれた。それが十字架の真意である。主が徹底的に貧しくなった事で、私達は呪いの呪縛から解放され、大いに祝福される神の子となる道が敷かれた。★人間の罪の特徴は自己中心性にある。他者の本音や痛みについて鈍感であるにもかかわらず、その事実も気付かない。むしろ、自分は悪くないとうそぶいてしまう。無意識のうちに、相手を傷つけているのだが、それも分かろうとしない罪性がある。その心の異常性から脱出する為には、どうしたら良いのだろうか。★神のみ言に対する絶対的な信頼を持つ事である。ヨセフとマリヤは、ナザレからベツレヘムまで、約120kmという長い距離を旅したが、その旅路は困難を極めたものであった。身重のままであり、いつ陣痛が起こるかという危機的な瞬間、瞬間は、どんなに恐れと不安に満ちたものであっただろう。しかし、著者ルカは一切、彼らの心の苦悩を記さない。その理由は、二人は「思い煩わない」決断をしていたからではなかろうか。マリヤは、み使いによって「恐れるな、マリヤ! あなたは必ず神の御子を生む」との約束をいただいていた。故に、彼らは最悪の状況に陥っても、「絶対的に大丈夫! 必ず守られる。神は私達を見捨てられない。」という確信を抱いていた。彼らの平安は、神への信仰に根差していたので、強固なものとなった。私達の人生は何が起こるか分からない、確かに、一寸先は闇である。しかし、み言葉にしがみついて離れない人は、圧倒的な勝利者となるのである。



2017年12月31日

「インマヌエルの神」

犬塚 契牧師

マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 <マタイによる福音書1章18-25節>

マタイ1章。新約聖書の初めに記されたイエスキリストの父ヨセフの系図には、かつての王ダビデや栄華を極めたソロモンの名がありました。時が時ならば、ヨセフも王でした。しかし、誰もが恐れる家系のそれではなく、綻びと破れが見えます。純潔を重んじるはずの系図に異邦人の血が混じり、女性たちの名が記され、一人は遊女でした。ただならぬ事件、恥ずべきスキャンダル、露呈される弱さ、隠しきれぬ罪…。つまりは、今日を生きる私たちと同じなのです。散々たる人の有り様そのままに主イエスキリストは来られたのです。主の天使はマリアに告げました。「この子は自分の民を罪から救うからである」。▲ベトナム戦争からの帰還兵だったアレン・ネルソンさんは、講演先の小学校で少女から「あなたは人を殺しましたか」と質問を受けます。真実を告げたならば子どもたちは、どんな反応するだろうか…。思い出せないくらいの時間を経て「YES」と答えた後に、彼が見たのは、「かわいそうなネルソン」と涙を流す少女の姿でした。彼の人生が変わり始めた時でした。▲「罪からの救い」と「インマヌエル―神は我々と共におられる―」その意味を考えています。どうにも取り繕えない系図、どうしようもない有様に語れらた700年前のイザヤの「インマヌエル」預言、どうにもうまく進まないヨセフのしがらみ…なお神、われらと共にいまし。クリスマスは、天が破れて溢れてきた神の愛の物語です。




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