巻頭言
2016年12月


2016年12月4日

「光は闇の中で」

犬塚 契牧師

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 <ヨハネによる福音書1章1節>

 ヨハネによる福音書…教会は伝統的に、イエスキリストの弟子のひとりであったヨハネを著者と考えてきました。1世紀の終わり近くに書かれたと言われます。十代の前半でイエスキリストに従ったヨハネは、70歳を超えたでしょうか、80に届いたでしょうか。彼が書き始めるに長い年月を経ました。たくさんを思い起こしたことでしょう、突然か必然かイエスキリストとの出会い、その口から語られた言葉、ガリラヤ湖の水しぶき、分けたパンの味、そして、忘れ得ぬ十字架の日と復活の驚き、昇天の寂しさと与えられた使命、さらに自分の母となったマリヤとの生活とその看取り、世界に広がった教会の出来事…それら一切の中で言葉が重ねられ、練られていきました。その書き始めは、「初めに言があった」でした。▲イエスキリストとの出会いがまだ新鮮で、風化などしようもない時期、まだの若さと熱さが残る中、晴れ渡るような明快さの中で書かれた「初めに」ではありません。年を重ねるごとに、彼は暗闇がどんなであるのかを知ったでしょう。この地が闇にどんなに染められやすいのか、人間というものがどんなにか深くえぐられているか、自分という存在がどんなに肉に弱く、罪にあるか、まるごと飲み込んでいく闇の強さを彼は知ったことでしょう。それでも、彼はこの世界の始め、天地創造を記した創世記1章を思い、それをいまや書き換えることから始めました。その天地創造の場に、イエスキリストがおられたのだと宣言をしました。ただの時間軸の最初の始まりを示した言葉ではありません。よーいスタートの合図でも、始まりの号令のような言葉でもありません。この「初め」のうちに愛の決断があります。この「初め」のうちにこれからの起こりうる痛みへの覆う覚悟と温もりがあります。この「初め」のうちに虚無で終わらない、諸行無常の響きで終わらない厳しき希望があります。闇が勝ちえない光があります。見たこともない遥かなる太古の想起が、ヨハネを支え、今日の私たちをを支えるのではありません。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」ヘブライ13:8



2016年12月11日

「神に招かれる人」

犬塚 契牧師

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 <ルカによる福音書2章11-12節>   

 市場に出回ることのない羊を育てていた羊飼いたちがルカ2章のクリスマスのシーンに登場する。育てていたのは神殿でいけにえとするための羊だったが、彼ら自身は神殿からは追い出されていた。手を洗えない、律法を守れない、神殿税を納められない罪人との評判だった。裁判でも彼らが証人として採用されることはなく、社会は彼らを排除した。彼らが野宿したエルサレムの郊外にも、「ローマの平和」「アウグストスのよい知らせ」の煌びやかなニュースは聞えてきていたと思う。それでもそれら一切が自分たちとは無縁のところで繰り広げられているまるで別世界の話に思えたことだろう。▲天使が羊飼いの周りを照らし、救い主誕生のニュースを大きな喜びをもって告げると、天で黙っていられなくなった聖歌隊が現れ、賛美を始めた。神が人となられることに天使達は驚いて賛美したが、その突然のコンサートに羊飼いたちも度肝を抜いたと思う。しかし、そんな地を揺るがす出来事も本当のクリスマスの味見、イントロ、広告に過ぎなかった。本当の正体、焦点、顕現は、ベツレヘムの飼い葉桶の中にあった。羊飼いは天使にアンコールを要求することなく賛美を聞いて、「ベツレヘムへ行こう」と決心した。▲大いに期待を寄せた羊飼たちが見たものは、ギャラリーの少ない、動物の匂いが充満する部屋で泣く赤ちゃんだった。彼らは大いに失望して帰る…ことはなかった。「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とルカは記す。▲「そうなんだ、この方法ならわたし達、羊飼いにも分かる。この方法ならわたし達に伝わる。本当に、神我らと共にいます」。▲この世の有り様、羊飼いの有り様、自分の有り様に、耐ええる救い主の姿は主イエスキリストであり、この方をおいては世界は震えず、世界は贖われ得ないと思う。小さき者に向けられる光を見ていきたい。



2016年12月18日

「義さと愛との接点」

犬塚 契牧師

あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。…イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」    <ルカによる福音書1章12-16節>  

 どの福音書もイエスキリストが宣教する前にその道を整えた人の名“ヨハネ”を記録しています。弟子のヨハネと区別して、荒野でバプテスマを施していたことからバプテスマのヨハネと呼ばれています。そして、ルカによる福音書は、イエスキリスト誕生の半年前に生まれたヨハネの誕生シーンに触れています。▲当時、ローマの支配下のユダヤ人の中で、メシア到来の機運が盛り合っていました。このままでよいのだろうかと生き方の問い直しをする人がいました。彼らに対して、ヨハネは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と語りました。ヨハネにとって、神の国とは、「義の神」でした。その神が近づくとなれば、待っているのは裁きのはずであり、必要なのは、悔い改めに他なりませんでした。ラクダの毛皮を着、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜を食料としながら荒野に生きるヨハネのもとに、人々の列が続きました。…恥ずかしい歩みを振り返って、私は2000年前にその列に連なっただろうかと思います。きっと、私は途中で引き返したのだろう。心に針が立ちます。▲アルコール依存症者のヘルプを行うAAにある二つの原則をある本に読みました。「極端な正直」と「極端な依存」だそうです。皆、人生をめちゃくちゃしてしまったという哀しさを共有しています。治ったと言わずに、やめ続けるという決断を繰り返し、一日に一歩づつしか進み得ないと知る人たちにとっては、虚栄も慢心も過信も誤魔化しも命取りです。極端な正直があります。なんだか荒野への列につながります。あらためて、待降節(アドベント)に聞きます。クリスマス前にヨハネの誕生が必要でしょうか?「いきなりイエス!」ではだめでしょうか?イエスキリスト誕生の前のヨハネの道備えを聖書は記します。それは、火を噴くような迫りの声のようなものでなく、“Are You OK?”と問う父の語りかけに聞こえます。そして、主イエスの誕生を待つのです。



2016年12月25日

「マリヤの賛歌」

犬塚 修牧師

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。 <ルカによる福音書1章46-56節>  

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)「主をあがめる」は「主イエス・キリストが私の魂の中で大きく、偉大な存在となっていく」事である。今までは、重荷や心を暗くする思い煩いが心を占めていたが、イエス様を救い主と信じ、受け入れた事で、これらのものが少しずつ減り、神の平安が次第に増していくのである。▼また「喜びたたえる」とは「狂喜する」意味である。人間的に考えるならば、彼女が置かれていた境遇は、喜びどころか、最悪の状況下にあった。彼女はナザレ村の一少女に過ぎなかったが、ある日、突然、み使いの「恵まれた女よ、おめでとう」と言う声が響いた。その知らせは、びっくり仰天する内容であった。自分から、神の御子が生まれるという「処女降誕の受胎告知」であった。それは、一見、光栄に満ちた知らせに見えるが、良く考えると、大変な重荷を背負った事でもあった。つまり、不倫の子を宿したという誤解を、村人に与えるからである、当時、姦淫の娘は、村八分、あるいは石打ちという極刑が待っていた。ゆえに恐ろしい未来を予感させる最悪の事件と言えよう。しかし、マリヤは主を喜びたたえた。▼なぜこのような雄大な賛美の告白ができたのであろうか。それは、神を信じる確信によって立ったからである。自分の将来を平安に満ちたものとして、そっくりそのまま受け入れたのである。マリヤの信仰の深さは「起こった出来事を思い巡らす」点にあった。(2:19参照) マリヤは自分の判断を優先しないで、神のみ心に従うという考え方に立っていた。即ち、すべては、神の栄光に変えられると信じ「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」(38節)と告白している。 この「思い巡らす」という動詞は、元来「共に投げる」という言葉に由来している。つまり、マリヤは、自分の身に起こった出来事のことで、悶々と悩む事をせず、全能の神に向かって、投げ返したのである。「思い巡らす」は「熟考する」「〜と出会う」という意味も持っている。これは頭を抱えて、悩む意味ではなく、神の愛の摂理を深く確信し、常に神に、その重荷や問題や、苦しみを打ち明ける事である。そうする時、神は、み言を通して明確な答えを与えて下さる。また未来も主の力で、奇跡的に守られていく。マリヤの人生は確かにそのように導かれていった。そこに喜びたたえるという救いの道が開けて来る。決してクヨクヨと悩んではならない。この事もあの事もすべては、神の愛のご支配の中で起こった出来事と信じ、すべてを神に投げ返す事である。主に信頼する事で栄光に満ちた未来が開けてくる事を信じよう。




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