巻頭言
2013年12月


2013年12月1日

「ハンナの祈り」

犬塚 修牧師

 大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた
<サムエル記上2章8節>

 不妊であったハンナはわが身の不幸を嘆き、夫を責め、ライバルのペニナに対する嫉妬心で苦しんでいた。そして、神に向かって叫び祈る以外に救いの道はないと悟った。祈りの中で、一切を神に委ねきる事を決断したあと、その切実な祈りは聞き届けられ、ついにサムエルという男児を得るに至った。その喜びが「ハンナの祈り」として表された。この詩は、一庶民の女性が書いたとは思えないスケールの大きさと迫力がある。長年の苦しみと悩みがハンナの信仰を深くし、大きくしたのだ。今朝は世界祈祷日礼拝であり、世界宣教のために祈り続ける無名の女性たちの働きを覚える日でもあるが、ハンナはすばらしい体現者と思う。以前のハンナは悲哀、孤独、失望、絶望等に支配されていたが、すべてを主に任せる決断のあとは、本来の自分らしさを取り戻した。彼女は自分の願いをどんな事をしても実現したいという執着心から解放され、謙遜な人に変えられた。また自分をより大きく見せる事なく、神の前により小さく、無力になる道を選んだ。それにより、彼女の信仰は飛躍し、世界性を帯びるものとなった。自我を通すと心は堕落し、疲弊していく。確かに邪な心は人生を狂わすものである。自己中心性と力の誇示は、滅亡への一歩となる。またハンナはこの世の権力者に対して、神の命令に聞き従おうとしない傲慢さを捨てよ、と大胆に迫っている。「驕り高ぶるな、高ぶって語るな」(3節) むしろ、自分の存在の儚さと脆さを知って謙虚になれと警告する。私たちは奇跡的なみ業や実力を求めやすい。けれども、大切な事は、自分が大きくなるのではなく、より小さくなる事である。生きているとハンナのように苦しみが襲う時がある。その中でジッと耐え忍び、勝利を得るためには、神のみ心を悟る神学者のようになる必要性がある。神学者とは、学問を専攻した人という意味ではなく、神の目で現実を捉える事ができる人の事である。たとえ、人間的に見ればどんなに絶望的に見えたとしても、慌てることなく、冷静に状況を判断し、「神は私のために良い事のみ起こされる」という強い確信を持って生きる事である。その人は鳥のように信仰の翼を広げ、人生の大空を自由に飛び回る事ができるであろう。



2013年12月8日

「宣言なる賛美を聞きながら」

犬塚 契牧師

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
ルカによる福音書 2章17-19節

 マリアは、「すべて心に納めて、思い巡らしていた。」「思い巡らす」には、一回限りで終わる作業でなく、永続的に繰り返すを意味する言葉使われている。様々な出来事を頭に置きながら、相互的に考え続ける作業だった。突然の羊飼いたちの訪問、普通の出産ならば招かれざる客だったと思う。汚れた最下層の身分だった。マリアとヨセフの家族もまたその底辺を生きていた。婚約中の妊娠は、小さな町のスキャンダルとなっただろうし、人口調査は無理をおして二人で出かけた。メシアと預言された赤子の誕生は実に普通だった。特に光が包んだわけでもなく、ウンチをし、お腹がすいたら泣き、おならをして、ヨセフを笑わせた。しかし、羊飼いたちは天での聖歌隊を見たと語った。突然の訪問者、自分たちの有り様、メシアの驚くべき地味さ、天での聖歌隊…様々な状況証拠を得て、思い巡らしが必要だった。どこに繋がっているのだろう、どこに向かっているのだろう、本当に神の業の進行があるのだろうか。▲自分が揺れることを本当に赦せている人は、きっと健全なのではないかと思うことがある。大抵、私たちは揺れることを赦さないし、憧れもいだかない。むしろ、不動を喜ぶ。きっとその方が、楽で簡単で安心なのだと思う。脅かされることに積極的な意味を見出すことは少ない。けれども、人が生きるとは揺れるということだし、それは神様から赦されているとも思う。「思い巡らし」である。そして、忘れないようにしたい。思い巡らしの後ろには、天での賛美が流れている。それは、宣言なる賛美である。現実を生きる私たちには、信仰を働かせる必要があるけれども、天地創造以来、変わりなき神の基調和音がある。クリスマスに聞きたい神様ご自身のハーモニー。



2013年12月15日

「受胎告知」

犬塚 契牧師

 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。…そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。…マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」    ルカによる福音書 2章

 老年のエリサベトへの受胎告知に皆が喜んでから、「六か月目」に今度はマリアの受胎告知があった。二人の受胎告知には、時間差以上の隔たりがある。一方は歓喜によって迎えられ、一方は人生の混乱へと続いていた。それでも、天使の持ってきた言葉は、「おめでとう」だった。この挨拶用語を新共同訳、口語訳、新改訳は、すべて「おめでとう」と訳している。婚約期間中で年齢がそれに達するまで待っていたマリアにとって、これ以上ないような恐ろしい話を天使は持ってきた。15-18歳が結婚適齢期と言われた当時、恐らくマリアは10代の前半だった。これから起きてくる出来事は、若くても十分想像できたと思う。実際、成長したイエスキリストには、父親の分からない”マリアの子”との嬉しくないあだ名ついた。思い描いた人生を根底から狂わせるような知らせだった。▲ルカの2章が、おとぎ話としてではなく、同じ現実として読めることがある。私たちの目の前に天使は現れはしないが、誰が思い描いたとおりに生き抜いてこられただろうか。私たちに前触れも許可なく様々に景色が変わってきたことを思う。マリアの「おめでとう」で始まった母としてのスタートも、故郷からはほど遠い馬小屋からだった。子どもは権力者から命を狙われて、一家でエジプトに逃亡する必要があった。途中から夫ヨセフは登場しなくなったし、祖父母は最初から登場していない。30才になると長男イエスは、伝道へと行くと家を出て行った。その3年後には、その子が十字架で叫ぶのを聞いていた。マリアへの「おめでとう」とは、なんと酷な言葉かと思う。しかし、「主があなたと共におられる」と語られた。それは、いつでも都合よく神が働くことを意味しない。神が塵に始まり、塵近くを生き、塵へと戻る者の歩みの底に意味をくださる。



2013年12月22日

「大いなる光」

犬塚 修牧師

 闇の中を歩く民は大いなる光を見、死の影に住む者の上に、光が輝いた(1節)  イザヤ書9:1〜6

 主イエスがお生まれになる約700年前に預言者イザヤに対して、クリスマスの預言が与えられた。当時、イスラエルは超大国アッシリヤの圧政のもと、苦しみもがいていた。将来に絶望し、生きる気力を奪われていた民に「大いなる光」が輝くという知らせが届いた。深い苦悩は私たちを主の言へと導くものである。次に「深い喜びと大きな楽しみをお与えになり」と記されている。クリスマスの出来事は私たちが予想をはるかに超える楽しみと喜びをもたらす。私たちは物事を判断し、行動する際に、誤った思い違いをしてしまう場合がある。しかし、主のみ業は愛に満ちており、深遠で正しい。「ミディアンの日」と記されている。これはイザヤの時代よりさらに400年前に登場した士師ギデオンが、わずか300人の兵士で、ミディアン人135千人を打ち破った大勝利の日の事である。軍人は戦争を力と力との激突と考えているが、それは憎しみ、怒り、復讐心を引き起こす。主が関与される戦いは武器や軍力によらず、民の祈りと賛美による。確かに主は圧倒的な勝利を与えられた。主イエスのお生まれとは この世の闇が大いなる光によって打ち破 られていく事を意味する。すでに主の十字架と復活によって、絶望を打ち砕く新時代が到来したのだ。人間 的な力と力がぶつかり合う暴力的な古い時代は終わらねばならない。平和と喜びのメシヤの時代が訪れたのだから。確かに現実は過酷で厳しいのも事実である。しかし、決して失望落胆する事はない。時折、不可解な試練に出会う時、私たちは「なぜ?」という疑問を持つ。10代の半ばで、不慮の事故 で全身の自由を奪われたジョニー・タダさんは「私がなぜこんな目にあったのか?」という深刻な問いを発した。色々な良い答えを聞いても、深い平安に至らなかった。だが倒れて傷ついた子供ような弱い私を抱き上げ「私がここにいるから安心しなさい」と優しく語られる永遠の父がおられるという信仰が彼女を救った。主イエスは「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」とある。このお方を信じる者はすでに平安と勝利の道を踏みしめて歩いているのである。



2013年12月29日

「訪れ」

犬塚 契牧師

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。…ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、…その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。…天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。…「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 <ルカによる福音書 2章1-21節>

 大叔父シーザーが成し遂げることのできなかった共和制ローマの権力集中を初代皇帝のアウグストゥスは成し遂げた。ルカの記すクリスマスは、この勅令から始まる。いつの時代も権力者の勅令とは、高らかなラッパのように響きながら、それは庶民生活がもろに揺さぶられることを意味する。権力の声は余りに大きく響く。それでも王家の子孫ヨセフもまた時が違えば王だったのだと書くことによって、福音書はわずかばかりの一矢を報いているようにも読めるが、現実、今マリアとヨセフの二人は、故郷離れての心細い出産を余儀なくされている。容赦ない時代の激流にこの若い夫婦もまた翻弄されているのだった。さらに最初の訪問者は下層の仕事とされた羊飼いたちだった。ルカ2章の始まりアウグストゥスの勅令の勇ましさから、わずか数行でそのあでやかさは失われていく。現代の華やかなクリスマスキャンペーンと違って、最初のクリスマスは、誰の注目もないところ、見過ごされてしまうようなところに置かれたのだった。生まれる場所、時代、環境を選べた神が、その心を実現させたのはベツレヘムでのこのクリスマスだった。天使たちで結集された聖歌隊は、その喜びの知らせを伝えるに極まって歌わずにいられなかった「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」▲あこがれに遠いその場所は神のおられる賛美ある場所となった。ギリシャ語聖書にない「あれ」と言う動詞を翻訳者たちは補ってくれたが、多くの注解者たちはむしろ「あり」と補うことがふさわしいのでは考えている。「地には平和、御心に適う人にあり」。そう神様の本音をそう聞きたいと思う。





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