巻頭言
2012年12月


2012年12月02日

「キリストのすがた」

犬塚 契

  ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。・・・あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。 <ガラテヤ3章1-4節>

 メモ帳を持つ習慣は、残念ながら馴染まなかった。いつも途中でどこかに忘れてしまうから、その後の行き先が気になって安心して生きられなかった。携帯電話がスマートフォンになって、メモ機能がつき、その技術の進歩に感謝した。ある日のメモにこんなことを書いていた「人は自分の悲惨さに立てないが故に、人を責める側に立つものなのだ。そして、十字架はそれを暴くのである。」▲人は自分の言葉、他人の言葉を信じる者であり、頑固な堅物だが、もし言葉が変わる可能性があるとすれば、やはり十字架の前であると思う。払われた代価の大きさを知って、ようやく言葉は変わるのだと思う。▲一度、十字架のキリストの前で言葉変わったガラテヤの人たちが再び自分の力を頼みとしたのは、パウロにとって驚きだった。この聖書個所を読んだ最初、「あれほどのことを体験」とあるから、どれほどのことだったのかと想像した。しかし、ロマ書8章に「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」を見つけて、聖霊の働きが、うめきもつ私たちを十字架キリストの前に導くことであったと知る。文語訳では「十字架につけられしままなるキリスト」と書かれていた。▲聖霊の導きの中で、なお今日とりなしてくださる主イエスキリストとまみえる導きをいただき、「あれほどの」福音の言葉を聞いていきたい。



2012年12月09日

「キリストへ」

犬塚 契

  兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。。…あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 <ガラテヤの信徒への手紙3章15-29節>

 3章後半は前半と違って、同胞へのやさしい語り出しがある。『アブラハムが祝福されたのは、律法を守ったからではなかったのですよ。そもそも彼は律法を知らなかった。それなのに、こんな約束を得たのですよ。思い出して下さい創世記を「わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」(17章8節)。そして、よく見てください。この『その子孫』とは単数形です。『子孫たち』ではないのです。つまりキリストのことであり、ひいてはキリストのからだなる私たちのことです。この約束はまだなお今もって、有効なのですよ』▲パウロは、聖書に精通した人だった。そして、聖書全体から彼が読み解いた神の事業計画書は、アブラムから始まってキリストにつながり、キリストのからだなる教会へと至る壮大なものだった。現代の世界各地の教会またその中に含まれていることを思う。律法に寄らず、イエスキリストへの信仰によって、神から相続する分があるという驚きがある。相続できるのは、他人ではない「神の子」である。▲「子」とどんな存在かを考えた。それはたとえいなくなっても、似たような背格好している人を探せばそれでいいのでもない、スペアがない、取替えがきかない、かけがえがない。神はそのようにご覧になる。そして、子は父の喜ぶものを喜び、父が愛するものを愛する。そんな善き関係こそが神の望まれることなのだ。



2012年12月23日

「アッバ、父よ」

犬塚 契

 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、・・・神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった…ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。<ガラテヤの信徒への手紙4章1-7節>

 ユダヤの社会では、12歳の誕生日を迎えて、最初の安息日になると親子はそれぞれに祈りを捧げた。父親は子どもがいよいよ自分の手を離れて律法の子になることを感謝し、子どもは自分の責任において神の戒めに従うこと決断と守りを祈った。一夜にしてその身分は変わり、それは二度と戻らなかった。▲ガラテヤの教会が直面していた課題とは、キリストへの信仰でなく律法主義への回帰と不必要な世を支配する諸霊への恐れだった。それは、まるで神の子どもが再び奴隷へと戻るかのようにパウロには映った。▲シャローム子どもの家のパンフレットにこう書いた。「シャローム子どもの家では、教会で行われる礼拝を大切にします。畏れを知る子に育って欲しいと願うからです。それは恐れなくともよいものから自由になることでもあります。祈りを知る子に育って欲しいと願います。それは自分の手を超えた出来事の前で、なお生きる力となるからです。人を愛し、神を愛する子に育って欲しいとねがいます。一人で生きるサバイバルが始まっていくのでなく、手を取り、取られ、支え、支えられ、愛し、愛される幸いな歩みが用意されていると信じるからです。」▲占いはしないし、おみくじは引かない、暗い夜道も今はそんなに怖くない、たたりにも諸霊にも恐れはない。それでもガラテヤの人たちを笑えないのは、ふと、今生きている所や歩みの方向性が、将来のどこに繋がり、どこに向っているのかが不確かになり、足の下から寒気に似た恐怖を抱くからだ。私にも2千年前とは形を変えた戸惑いがある。だから、繰り返し「わが子よ」と呼ばれる神の元へ戻る必要があるのを感じる。パウロは「アッバ、父よ」と呼べること自体が、神の子とされている証拠だと嬉しいことを語った。ならばこの寒さ増す空の下の小さなうめきこそ聞かれる神に、「とうちゃん」と祈る。



2012年12月30日

「一緒にいたい」

犬塚 契

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。  <マタイ1章23-25節>

 新約聖書のはじめ、マタイの1章は系図から始まる。さぁ、聖書に馴染もう!とする人たちの出鼻をくじくような系図…。それでもマタイは、「あるところにヨセフとマリアという若者がおりました」という書き出しをしなかった。家系を大事にするユダヤの文化を尊重してのことだった。しかし、その系図はヨセフが王の系譜であることを示しつつも、今は貧しき石大工であるという現実以上に、人間の恥と罪と失敗と裏切りと憂いと痛みを含んだ破れのある系図だった。例外的に登場する4名の女性たちは、異邦人、遊女、不倫相手だった。系図が意味するは、週刊誌が暴露するような出生の秘密ではなく、他人のスキャンダルで安堵を勝ち得るためでもなかった。もう神によって取り扱われる以外にない人間の有り様が系図に現われていた。その後にクリスマス物語は続く。▲聖書は「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と記す。ヨセフは二つの意味で正しかった。@妊娠のマリアを訴えることをしなかった。訴えさえしたらヨセフへの「だらしない男」という視線は軽減できたと思うが、それを選択しなかった。Aまぁいいかと言って結婚しなかった。ユダヤの掟は、他の男性との関係がある者との結婚を禁じていた。彼はその掟にも従った。ヨセフは、愛を通し、ルールも守った。彼の行動は100点だったが痛みは残った。マリアと生まれる子のこれからを思うと過酷だった。正しい人ヨセフが、“正しさ”を超えるのには、何が必要だったのだろう。夢の中で聞いた言葉は、かつて預言者イザヤがイスラエル危機に語ったそれだった。「神は我々と共におられる」。この有り様にもおられる神を信じて、妻を迎え入れた。





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