巻頭言
2011年12月


2011年12月04日

「救い主、誕生の預言」

犬塚 契

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。…万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」          イザヤ9章1-7節

 11月27日は世界祈祷週間の始まりの日。タイにもシンガポールにもルワンダにもインドにも簡単には行けないけれど、遣わされている人を覚え、捧げることで世界伝道に参加できるのだとあらためて思った。祈りつつ迎えた高橋公子姉の転会式も感謝だった。真田の小さな群れに新しい人を主が送ってくださり、主を知り、影響を与え合うことの恵みを感じた。アドベント(待降節)も始まった。“到来”“来るべき”というラテン語で、クリスマスを迎える準備の時として教会は4週を過ごす。▲イザヤ書9章が礼拝の聖書箇所。イエスキリスト誕生700年前の預言。過去形で語られるのは、まだ事は起きていなくともあまりに確実だから「〜でしょう」の予報でなく、過去形での言葉となる。繰り返し読むと畏れすら覚える神の言葉の力強さを思う。8章の最後のことばによって、当時の置かれた状況の一端が知ることができる。「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた…。」隣国の悲惨な姿をユダの人達は聞いていただろうか。占領政策によって人が無理に移され、異教が持ち込まれ、生きた子が捧げられる。不安が不安を呼び、恐れが恐れを駆り立てる。その時代を生きていたら、きっとこう叫んだと思う。「来るべき!(アドベント)。来なきゃ困る!」と。▲イザヤは辱めを受けた北から慰めが始まり、救い主が誕生すると預言した。人間的な思いでは、ため息が出、見込みなく、逃れられない闇が広がる。たびたびニュースに聞く、悲しくも人がケダモノへと変わる時。なんの慰めの可能性があるのか。それでもイエスキリストに光を見る。そこに「主の熱意」を見るからだ。「妬み」とも訳せる熱意があり、激しく妬みを覚えるような神の燃えるような愛を聞く時がクリスマスであることを思う。



2011年12月11日

「きっと神が共におられる」

犬塚 契

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 マタイ1章23節

 婚約者の妊娠というスキャンダルでヨセフは疲れきっていたと思う。それでも疲労のピークを迎え、いよいよヨセフは「縁を切る」という決断を下し、ようやくまどろむことができた。その夢の中で天使は告げた。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」▲一方、マリアはその数ヶ月前、自分の体の変化にまだ気付かないうちに御使いの訪問を受けた。10代の少女は当然、これから広がる噂、自分の家族が受ける軽蔑の視線、ヨセフの家族との関係を考えただろう。それでも最後に『マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」』▲当時の社会的厳しさや預言された神の救いの計画を担うという重責を考えると、マリアとヨセフ、同じ日に二人まとめて、御使いが登場してくれればもっと分かりやすかったのにと思う。しかし、神が望まれたのはそれぞれの小さな信仰者の応答だった。▲続きの福音書を読むとこの家族が神によって格別に扱われているようには思えない。神殿へ“献児式”に向ったこの家族が用意できたのは家鳩・山鳩であり、それは貧しい家庭が献げるいけにえだった(ルカ2章)。マルコ6章には、他の兄弟姉妹が生まれてもイエスが「マリアの息子」と呼ばれ、父親が誰だか分からない長男として嘲られていたことが分かる。それでも、もうよかったのではないかと思う。「インマヌエル」を信じた夫婦にはそれで十分だった。▲処女降誕を受け入れるのが困難な人が多くいる。しかし、この時起こった一番の奇跡は、マリアとヨセフに起こったことではないかと思う。震える10代の二人が「それでよかった。主が一緒ならこの道もまたよし。痛むもよし、あざけりもよし、でこぼこもよし。きっと神が共におられる」と導かれたことだと思う。



2011年12月18日

「時満ちて」

犬塚 契

 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。         ルカによる福音書2章1-7節

 歴史上で初めて世界を統一したのはローマだった。初代皇帝アウグストスがルカ2章に登場する。絶大な権威を手にした彼は徴兵と徴税のため人口調査を始めた。ユダヤはその特殊な民族感情から徴兵は免除されていたが、徴税は逃れることができなかった。そして、ヨセフとマリアも、故郷ベツレヘムへと150キロの旅をはじめる。家長一人で済んだであろう登録に、わざわざマリアも連れていったのには、この若い夫婦は近隣の理解を得ていなかったのだろう。新約聖書がイエスキリストとローマとの関わり記している箇所は、誕生のこのシーンと十字架でのピラトだけだが、この背景に見えるのは、絶大な力をもった皇帝アウグストスの権威に翻弄され、抗うことできずに現実を生きる夫婦であり、それに巻き込まれるような準備足りない出産である。しかし、それは700年前にミカ書5章に預言されていたことでもあった。そして、地に宿屋の予約はなかったけれども、天では天使達が聖歌隊を組織していた。地の権威にまさる神の権威を思う。▲有名な詩を刺繍で書いた一枚の壁掛けをおみやげにいただいたことがある。最初に広げた時が裏側だったから読むのに苦労した、いや読めなかった。ほつれたような糸、重なりあった色…なんだろうこれは。ひっくり返してみて綺麗な詩が書かれているのだと気付き、そのおみやげの価値が分かった。そんなイメージをいただいて以来、時々、刺繍の裏側を生きているのではないかと想像することがある。うずくまって、ただ手を組むとき、今自分はきっと刺繍の裏側を生きているのだと。自分が何をしているのか分かっているように思う時は、迷いの中にいる人が不思議に映り、自分が迷いの中にある時は、確かさに憧れと脅えの両方を感じる。頑なさを嘆く。もう一面をかいま見るには砕かれた信仰をいただく必要がある。



2011年12月24日

「神に招かれる人」

犬塚 契

 「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」  ルカ2章11-12節

 市場に出回ることのない羊を育てていた羊飼いたちがルカ2章のクリスマスのシーンに登場する。育てていたのは神殿でいけにえとするための羊だったが、彼ら自身は神殿からは追い出されていた。手を洗えない、律法を守れない、神殿税を納められない罪人との評判だった。裁判でも彼らが証人として採用されることはなく、社会は彼らを排除した。彼らが野宿したエルサレムの郊外にも、「ローマの平和」「アウグストスのよい知らせ」の煌びやかなニュースは聞えてきていたと思う。それでもそれら一切が自分たちとは無縁のところで繰り広げられているまるで別世界の話に思えたことだろう。▲天使が羊飼いの周りを照らし、救い主誕生のニュースを大きな喜びをもって告げると、天で黙っていられなくなった聖歌隊が現れ、賛美を始めた。神が人となられることに天使達は驚いて賛美したが、その突然のコンサートに羊飼いたちも度肝を抜いたと思う。しかし、そんな地を揺るがす出来事も本当のクリスマスの味見、イントロ、広告に過ぎなかった。本当の正体、焦点、顕現は、ベツレヘムの飼い葉桶の中にあった。羊飼いは天使にアンコールを要求することなく賛美を聞いて、「ベツレヘムへ行こう」と決心した。▲大いに期待を寄せた羊飼たちが見たものは、ギャラリーの少ない、動物の匂いが充満する部屋で泣く赤ちゃんだった。彼らは大いに失望して帰る…ことはなかった。「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とルカは記す。▲「そうなんだ、この方法ならわたし達、羊飼いにも分かる。この方法ならわたし達に伝わる。本当に、神我らと共にいます」。▲この世の有り様、羊飼いの有り様、自分の有り様に、耐ええる救い主の姿は主イエスキリストであり、この方をおいては世界は震えず、世界は贖われ得ないと思う。小さき者に向けられる光を見ていきたい。


TOP