巻頭言
2009年12月


2009年12月6日

「世の常」

牧師 犬塚 契

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実で ある。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない ばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も 備えて下さるのである。      Tコリント 10章13節(口語訳)

なんだか急に寒くなって来て、家族で出先から帰ると、なにより先 にストーブのスイッチを押すようになった。寒い事ばかりでなく、 見事な銀杏の黄色にびっくりもする。かけ忘れた眼鏡をつけた時の ように夜景もこの時期クリアに見える。そして、季節ごとに思い出 す聖書のことばがある。冬は上記の聖書の言葉で、二十歳を越えよ うとしている時期に「世の常でないものはない」と聞いて、ホッと したのを思い出す。この言葉を言い替えるとどうなるのか。「当た り前のことなんだよ」という響きか、それとも「珍しいことではな いんだ」か。しかし、そこには、自分の課題を一般化された寂しさ とか、突き放された感覚もなく、先人たちも今の自分と同じ課題を 生き抜き、またこの瞬間もどこかで誰かが同じ課題を生きていると いう事実に思いを馳せることができた。今の自分の祈りは、昔の祈 りでもあり、これからも祈られ続けていく事柄なのだと思うと心が 慰められた。自分の心の内の事などよく分からず、分からないもの を言葉にして伝えられる器用な術も持たず、ただ悶々としていた時 期に響いた聖書のことばだった。「のがれる道も備えてくださる」 今年のクリスマスは特にここが響く。本当に、逃げ場、逃げ道が必 要だと思う。それを恵みと言う。



2009年12月13日

マリヤの讃美

牧師 犬塚 修

わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたた えます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださっ たからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言う でしょう。                    ルカ1:47〜48

マリヤはわが身に起こった出来事に驚き恐れました。しかし、神の ご支配を固く信じる事で、恐れは感謝に変えられていきました。そ の戦いの中で、この不朽の詩は生まれたのです。この詩の背景には ハンナの詩があります。1000年以上も昔の女性であったハンナはサ ムエルの母親です。1サムエル記1章を読みますと、彼女の苦悩と 嘆き、また切なる祈りが伝わってきます。ハンナは長年苦しんでい た問題に、ついに終止符が打たれる時が訪れて「主にあってわたし の心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対 して口を大きく開き、御救いを喜び祝う」(Tサムエル2:1)と信仰 の勝利を歌いました。マリヤは自らとハンナを重ね合わせて賛美を捧 げたのです。私達は時として、苦悩と嘆きの谷を通る時期がありま すが、主の御名を呼びますと、すばらしい救いと助けを得る事がで きます。いまだ良い結果を得ていなくても「すでに得たり」という 先取り信仰に立って主を讃美しましょう。 王ダビデは「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出 し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉 とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」(詩編 84:6〜7)と歌いました。神は耐え忍んでいる私達を導き、必ず豊 かな命の糧を与えられます。そこは蜜と乳があふれる地です。 主のご降誕は私達に神の喜びと平安を告げ知らせます。主のみ言葉 に聞く人には、豊かな祝福が用意されています。夜がいかに暗くて も明けない朝はないように、闇のように見える出来事も朝焼けに向 かって変えられていく事を信じて祈り続けましょう。「わたしは、 ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」(ヨハネ黙 示録22:16



2009年12月20日

「折にかなって」

牧師 犬塚 契

天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを 包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。…神に できないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のは しためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、 天使は去って行った。そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に 向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサ ベトに挨拶した。ルカ1:35〜40。

夫のない十代の妊娠という出来事は、今とは比べ得ることのできな いくらいの一大スキャンダルだったと思う。それでも、「訴えてや る!」と言えたはずのヨセフは「…正しい人であったので、マリア のことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した 。」(マタイ1:19)そのことはマリアのせめてもの慰めになっただ ろうか。しかし、天使は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと 共におられる。」というメッセージをもってきた。恵みとはそうと はなかなか気付かないものなのかもしれないと思う。マリアはその ことを受け止め、十代にして一大決心をする。それが上記の聖書箇 所、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りま すように。」イエスキリストが生まれるや否か、そして世界の救い はこの少女の告白にかかっていた。マリアはその「恵み」を美しく も謙虚な告白で応答した。▲しかし、その後の記事もまた興味深い 。天使が去った後、マリアは残された。一日眠り、二日眠り、数日 たった時だろうか。お腹が膨らみ、胎児の動きも分かるころだろう か。マリアは何度も天使と出会ったことが夢でなかったと自分に言 い聞かせただろうと思う。薄れていくものもまたあったかもしれな い。不安は次第に膨らんだ。とうとうマリアは親戚エリサベトを訪 ねる。エリサベトは言った。「わたしの主のお母さまがわたしのと ころに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶の お声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主 がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでし ょう。」そして、「マリアの賛歌」と呼ばれるマリアの神賛美が続 く。▲神懸かりでない、それでも折りにかなった助けのいくつもに 、確かに神の働きが見える。



2009年12月27日

おはよう

牧師 犬塚 修

すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたの で、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 マタイ28:9

イエス様に従ってきた人たちは、自分たちの将来について、恐れと 不安を覚えていました。「本当に大丈夫だろうか…どうなるのか… 」と考えこみ、不安が増し、内心ひどく悩んでいました。そのゆく 手には暗雲が垂れ込めてしまう感がしていた事でしょう。そのよう な中で、復活されたイエス様が「行く手に立っていて」(原語では 出迎えて≠フ意味)優しくみ声をかけられました。彼らは驚き、 かつ喜んだことは言うまでもありません。これから進むそこに、復 活の主がいて下さるというのですか! おはよう(慶べ、喜び続け なさいの意味)と呼びかけられたのです。 この一年を振り返りますと、感謝がこみ上げてきます。いろいろな 出来事がありましたが、主はそのすべてを超越して、すばらしい救 いと助けを与え続けて下さいました。ですから、来年もその恵みが 失われることは断じてありません。むしろ、もっと大きな恵みが備 えられています。そのことを確信して慶ぶことです。もし、私達が 明日を否定的、悲観的なものとして考えるならば、それは主のみ心 に適うものとは言えません。無気力、暗黒、恐怖、別離、孤独、無 感覚、忘却、滅亡などのサタニックな言葉は偉大な使命感、光、平 安、一致、再会、連帯感、永遠、救い、天国、記憶などという肯定 的な言葉に取って代わらねばなりません。前者は私達にとって悪へ の誘惑であり、後者は神の言葉です。イエス様が復活されたのです から、もはやこの世界は一変したのです。それは、暗黒の世界が曙 光に輝く朝焼けに似ています。 さあ、私達はイエス様の復活によ り、将来を復活の命に満ちて生きていきましょう。


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