巻頭言 2009年12月 |
「世の常」
牧師 犬塚 契
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実で ある。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない ばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も 備えて下さるのである。 Tコリント 10章13節(口語訳) |
なんだか急に寒くなって来て、家族で出先から帰ると、なにより先
にストーブのスイッチを押すようになった。寒い事ばかりでなく、
見事な銀杏の黄色にびっくりもする。かけ忘れた眼鏡をつけた時の
ように夜景もこの時期クリアに見える。そして、季節ごとに思い出
す聖書のことばがある。冬は上記の聖書の言葉で、二十歳を越えよ
うとしている時期に「世の常でないものはない」と聞いて、ホッと
したのを思い出す。この言葉を言い替えるとどうなるのか。「当た
り前のことなんだよ」という響きか、それとも「珍しいことではな
いんだ」か。しかし、そこには、自分の課題を一般化された寂しさ
とか、突き放された感覚もなく、先人たちも今の自分と同じ課題を
生き抜き、またこの瞬間もどこかで誰かが同じ課題を生きていると
いう事実に思いを馳せることができた。今の自分の祈りは、昔の祈
りでもあり、これからも祈られ続けていく事柄なのだと思うと心が
慰められた。自分の心の内の事などよく分からず、分からないもの
を言葉にして伝えられる器用な術も持たず、ただ悶々としていた時
期に響いた聖書のことばだった。「のがれる道も備えてくださる」
今年のクリスマスは特にここが響く。本当に、逃げ場、逃げ道が必
要だと思う。それを恵みと言う。
マリヤの讃美
牧師 犬塚 修
わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたた えます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださっ たからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言う でしょう。 ルカ1:47〜48 |
マリヤはわが身に起こった出来事に驚き恐れました。しかし、神の
ご支配を固く信じる事で、恐れは感謝に変えられていきました。そ
の戦いの中で、この不朽の詩は生まれたのです。この詩の背景には
ハンナの詩があります。1000年以上も昔の女性であったハンナはサ
ムエルの母親です。1サムエル記1章を読みますと、彼女の苦悩と
嘆き、また切なる祈りが伝わってきます。ハンナは長年苦しんでい
た問題に、ついに終止符が打たれる時が訪れて「主にあってわたし
の心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対
して口を大きく開き、御救いを喜び祝う」(Tサムエル2:1)と信仰
の勝利を歌いました。マリヤは自らとハンナを重ね合わせて賛美を捧
げたのです。私達は時として、苦悩と嘆きの谷を通る時期がありま
すが、主の御名を呼びますと、すばらしい救いと助けを得る事がで
きます。いまだ良い結果を得ていなくても「すでに得たり」という
先取り信仰に立って主を讃美しましょう。
王ダビデは「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出
し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉
とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」(詩編
84:6〜7)と歌いました。神は耐え忍んでいる私達を導き、必ず豊
かな命の糧を与えられます。そこは蜜と乳があふれる地です。
主のご降誕は私達に神の喜びと平安を告げ知らせます。主のみ言葉
に聞く人には、豊かな祝福が用意されています。夜がいかに暗くて
も明けない朝はないように、闇のように見える出来事も朝焼けに向
かって変えられていく事を信じて祈り続けましょう。「わたしは、
ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」(ヨハネ黙
示録22:16
「折にかなって」
牧師 犬塚 契
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを 包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。…神に できないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のは しためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、 天使は去って行った。そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に 向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサ ベトに挨拶した。ルカ1:35〜40。 |
夫のない十代の妊娠という出来事は、今とは比べ得ることのできな
いくらいの一大スキャンダルだったと思う。それでも、「訴えてや
る!」と言えたはずのヨセフは「…正しい人であったので、マリア
のことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した
。」(マタイ1:19)そのことはマリアのせめてもの慰めになっただ
ろうか。しかし、天使は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと
共におられる。」というメッセージをもってきた。恵みとはそうと
はなかなか気付かないものなのかもしれないと思う。マリアはその
ことを受け止め、十代にして一大決心をする。それが上記の聖書箇
所、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りま
すように。」イエスキリストが生まれるや否か、そして世界の救い
はこの少女の告白にかかっていた。マリアはその「恵み」を美しく
も謙虚な告白で応答した。▲しかし、その後の記事もまた興味深い
。天使が去った後、マリアは残された。一日眠り、二日眠り、数日
たった時だろうか。お腹が膨らみ、胎児の動きも分かるころだろう
か。マリアは何度も天使と出会ったことが夢でなかったと自分に言
い聞かせただろうと思う。薄れていくものもまたあったかもしれな
い。不安は次第に膨らんだ。とうとうマリアは親戚エリサベトを訪
ねる。エリサベトは言った。「わたしの主のお母さまがわたしのと
ころに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶の
お声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主
がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでし
ょう。」そして、「マリアの賛歌」と呼ばれるマリアの神賛美が続
く。▲神懸かりでない、それでも折りにかなった助けのいくつもに
、確かに神の働きが見える。
おはよう
牧師 犬塚 修
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたの で、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 マタイ28:9 |
イエス様に従ってきた人たちは、自分たちの将来について、恐れと
不安を覚えていました。「本当に大丈夫だろうか…どうなるのか…
」と考えこみ、不安が増し、内心ひどく悩んでいました。そのゆく
手には暗雲が垂れ込めてしまう感がしていた事でしょう。そのよう
な中で、復活されたイエス様が「行く手に立っていて」(原語では
出迎えて≠フ意味)優しくみ声をかけられました。彼らは驚き、
かつ喜んだことは言うまでもありません。これから進むそこに、復
活の主がいて下さるというのですか! おはよう(慶べ、喜び続け
なさいの意味)と呼びかけられたのです。
この一年を振り返りますと、感謝がこみ上げてきます。いろいろな
出来事がありましたが、主はそのすべてを超越して、すばらしい救
いと助けを与え続けて下さいました。ですから、来年もその恵みが
失われることは断じてありません。むしろ、もっと大きな恵みが備
えられています。そのことを確信して慶ぶことです。もし、私達が
明日を否定的、悲観的なものとして考えるならば、それは主のみ心
に適うものとは言えません。無気力、暗黒、恐怖、別離、孤独、無
感覚、忘却、滅亡などのサタニックな言葉は偉大な使命感、光、平
安、一致、再会、連帯感、永遠、救い、天国、記憶などという肯定
的な言葉に取って代わらねばなりません。前者は私達にとって悪へ
の誘惑であり、後者は神の言葉です。イエス様が復活されたのです
から、もはやこの世界は一変したのです。それは、暗黒の世界が曙
光に輝く朝焼けに似ています。 さあ、私達はイエス様の復活によ
り、将来を復活の命に満ちて生きていきましょう。