巻頭言 2008年12月 |
「より軽やかに」
牧師 犬塚 修
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜び たたえます。」 ルカ1:47 |
受胎告知のあと、エリサベツの家を訪れたマリヤは、喜びに満ち
た詩(マグニフィカ-ト)を書き記しました。上記はその冒頭の一
節です。この詩には軽やかな響きがあります。しかし、現実的に
考えてみると、彼女にそんなウキウキ感を持つ心のゆとりはなか
ったはずです。ナザレ村に帰ったのちは、数奇な運命が待ってい
るということを、マリヤ自身も想像できたと思います。その重苦
しい日々を思えば、憂いと悲しみに満ちた深刻な詩が生まれても
おかしくない状況であったはずです。にもかかわらず、生まれた
詩は羽毛のように軽やかで、天高く飛翔するかのようでした。な
ぜそのような内容になったのでしょうか。その理由はマリヤが、
神の完全な支配を確信していたからと信じます。人間的に見れば
、不安と恐れとなる原因は、山ほどありましたが、そんなものに
は関わりなく、ただ、神の聖なるみ心を求め、全信頼を寄せまし
た。そこでマリヤが心でとらえたものは、神の不思議な救いのご
計画でした。自分の胎内から生まれ出るみどりごが全世界の救い
主として、世界史を塗り替えるという啓示は、どんなにその魂を
躍らせた事でしょうか。私達に求められているものは、このマリ
ヤに見る軽やかさと思います。重い現実を吹き飛ばす軽さは、信
仰の結実として生まれます。アンデルセンもまた、自分の人生を
「美しいメルヘンのようだった」と述懐しました。その生涯は涙
と悲しみが一杯詰まったものでもあったのに、明るく言いえたの
は、イエス様が自分にとって、永遠の同伴者であるという強い信
仰と喜びがあったからです。彼もまた、マリヤのような信仰の人
であったのでしょう。
「馬小屋でよかったと思う」
牧師 犬塚 契
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの 町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行 った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するた めである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは 月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせ た。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 ルカ 2章 |
ヨセフにとって、皇帝アウグストゥスの出した人口調査の命令は
、迷惑なものだったと思う。税金をしっかりと徴収したい皇帝は
、登録に自分の町へ帰ることを強制した。ヨセフの都合はお構い
なしだ。みんなが帰省するから、当然宿屋はなかった。登録はヨ
セフ一人でもよかったかも知れないが、未婚の子を宿すマリアひ
とりをナザレに残しておくことはできなかった。妊婦と一緒の旅
は、予想以上に時間がかかったと思う。そして、長旅が続くこと
しばらく、とうとう月が満ちてしまった。▲「最悪〜!」である
。迷惑な人口調査の勅令といい、マリアの妊娠のタイミングとい
い、足りない宿屋の数といい、赤子を見守る面子といい(馬だっ
た)、昨日の天気といい、今朝つまづいた石といい、踏んだ馬の
糞といい、下り気味のお腹の調子といい、すれ違う人々の愛想と
いい…。▲神の子誕生ならば、もう少し気が利いていた方がマリ
アもヨセフも楽だったと思う。何より守られているという安心感
がある。しかし、ひいきはなしだった。▲退去後の部屋を掃除し
て、残された物や汚れ方、壁の落書き、プリクラ、履歴書、処方
箋などによってどんな生活をされていたのかをふと垣間見ること
がある。クリスマスの時期、つくづく思うのだ。私たちもやはり
馬小屋とそうそう変わりないんだと。神の子誕生が馬小屋でよか
ったと寒い日には特にしみじみと思う。
「主の飼い葉おけへ」
牧師 犬塚 修
「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、 ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見 ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリア とヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた 。」(ルカ2:15〜16) |
神の御子のご降誕のニュ−スを、世界で最初に受け取ったのは、
寒い野原で羊のために、野宿していた貧しい羊飼いたちでした。
彼らは永久に語り継がれる御子誕生の証人の栄光を与えられたの
です。その理由は、彼らは何があっても、みどり子のもとに行こ
うとした信仰の人々であったからです。占星術者たちから、御子
誕生の所を聞いたにもかかわらず、ヘロデや祭司長たちは急いで
行く事はありませんでした。彼らが住むエルサレムの町からわず
か10kmほどしか離れていなかったにもかかわらずです。彼らは
御子と出会う絶好のチャンスを決定的に失いました。彼らの関心
は自分たちの事であり、ホンネでいうと、御子との出会いは、人
生において価値観の下位の位置にあったのでしょう。しかし、羊
飼いはそうではありませんでした。彼らは何を犠牲にしても、御
子を拝することを必死で求めました。彼らの思いは御子に集中し
ていて、残していく羊たちの事は、神にゆだねてしまいました。
彼らはとるものもとりあえず、ベツレヘムに向かったのでしょう
。その村に着いても、一体どこにおられるのか、分からないまま
、一軒、一軒捜し歩きました。それは、時間がかかる事であった
と思うのです。そして、ついに御子を探し当てました。そこは、
何と家の立派な客間ではなく、むさくるしい家畜小屋でした。神
の御子がへりくだられたお姿に心底、驚いた事でしょう。私たち
もこの羊飼いと似ています。御子とお会いするためには、犠牲や
苦労が伴うかもしれません。しかし、それは、豊な祝福と報いを
もたらす短い骨折りに過ぎません。私たちも羊飼いたちの後ろに
続きましょう。御子を礼拝して生きましょう。
「傷ついた葦を折ることなく」
牧師 犬塚 契
傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。イザヤ書42章3節 |
クリスマスに届いたカードをながめ、妻や私の友人、その家族が
今年もそれぞれの場所で確かに一年また歩みを重ねたことを知っ
た。家族が増えたり、職が変わったり、引越ししたり、変わりな
く静かであったり…。私は知らないそれぞれの歩みに、やはり神
様がふさわしい守りを与えられた証しを見て、なんだか嬉しくな
った。目の前の作業に追われる日々の中、自分ではただ無我夢中
だったとしても、振り返ってやはり折々に神の御手があるのだと
…。そんなことを短く上手にカードに書く友人達をうらやましく
、誇らしく思った。人は勝手に生きているのではない、やはり生
かされてある。▲榎本保郎牧師が意外なことを書かれていた。『
「神のみ旨だと思って、神のあとに従っていくときには不安にな
ってくるのであって、自分の能力と自分の計画でやっている時は
、あまり不安がない。私たちも、そういう意味で「祈ってくださ
い」言うものがなければならない。」▲神様に従えば、平安があ
るもんだという思い込みがあった。実際、そうなることもあると
思う。しかし、神の導きに従うとは、知り得たことを頼りにしな
いが故の不安があるものだと。だから、祈りが生まれてくるのだ
と。▲振り返ってオロオロとした一年だった。それでも歩みが進
んだとすれば、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯
心を消すことなく」やさしく導きを与える神の愛ゆえだと思う。
なおあきらめずに、いよいよ確かに導きを与えてくださる神様に
感謝する一年の終わりとしたい。