巻頭言
2007年12月


2007年12月2日

「細く、小さく、地味に」

牧師 犬塚 契

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いった いこの挨拶は何のことかと考え込んだ。  ルカによる福音書1:29

ミッション系大学の面接試験。「旧約聖書で最も印象に残っている 話はどこですか。そして、そこから教えられることはなんですか? 」という質問があったらしい。自分だったら、どこの個所を選ぶか 考えてしまった。真っ先に頭に浮かんだのは出エジプト記。前には 海が広がり、後にはエジプト軍の絶体絶命の中で、海が二つに分か れる超自然的なシーンだった。「十戒」という映画にもなった。頭 に浮かぶ映像は、映画からのものだと思う。▲散りばめられた奇跡 の後ろに隠れてしまうようだが、荒野の旅は40年間も続いた。1460 0日の日常があった。▲神様は計画を進めるに、誰もが歓喜し、賞賛 するような方法ではなく、細く、小さく、地味に思える方法を用い るほうが好きだ。マリアの訪れたこの戸惑いと困惑、考え込んでし まう知らせは明らかに彼女にとって「迷惑」な話だった。招かれざ る天使の来訪と懐妊の宣言に、マリアの心は恐れと将来への不安、 周り近所・ヨセフへの言い訳、なぜ私?の理由探しで張り裂けそう だったに違いない。眠れない夜だった。神の子の誕生ならば、もっ とセンセーショナルに、歓喜と驚きの中を、世界の一大イベントと して企画してもよさそうにも思う。神様の選ばれた方法は、まるで どこに計画があり、御手があるのか分からないようなものだった。 ▲クリスマスがこの形でよかったのは、私たちの日常が喜怒哀楽の 4文字で表せないくらいの複雑で、しかも平凡であっても、神の計画 の中にあることを思い出させてくれるからだ。



2007年12月9日

真の神と出会うためには

牧師 犬塚 修

それゆえ、わたしの主が御自ら。あなたたちにしるしを与えられる 。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエ ルと呼ぶ イザヤ7:14

「大衆は理性的ではなく感情的であり、常に足らざるを補ってくれ る強い力を好む」(わが闘争) A・ヒトラ−は人心のモロさ、愚かさ 弱さを見抜いていました、そして彼は自ら独裁者となって、ドイツ 国民の心を洗脳状態に陥れ、ついには全世界を恐怖のどん底に突き 落としました。また、約2000年前も、群集は神の子を十字架に かけようとして「十字架につけよ」と叫びました。彼らも非常に感 情的になり、悪魔的な力に踊らされたのです。しかし、私たちの主 イエス様は想像とは全く異なるお姿でこの世界に来られました。「 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前 に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿も ない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を 知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し 、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのは わたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手 にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。」(イザヤ53 :3〜4)イエス様は飼い葉桶でお生まれになりました。私たちが真 の神と出会う事を切望するならば、自らも家畜小屋の飼い葉桶に行 き、身を低くしなければなりません。あの羊飼いのように困窮と弱 さをかかえたままで、私たちは神と出会う事ができるのです。



2007年12月16日

「言葉」

牧師 犬塚 契

…シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言わ れた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、 何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみ ましょう」と答えた。    ルカによる福音書 5:5

ポロンポロンとギターを初めて弾きだした時、弦を押さえる左手の 指が痛くて仕方がなかった。しばらくすると左手の指の先端だけが 固くなってきたことに気がついた。▲皮膚に刺激を与え続けるとそ の固くなって痛みを軽減しようとする。ギターもペンだこも足の小 指もそうだ。やっかいなことに、心も同じ作用をしようとするよう で、傷がつきすぎると固くなってしまう。あまり生産的ではない言 葉ばかりがぐるりぐるりと心を回る。そして、だんだんいびつな形 になっていく。心にあることは次第に表に出てくるから、なんだか 周りの人と関係が作りづらくなる。指摘されても頭にきたり、塞ぎ 込んだりばかりで、修復は困難に思える。みんなそんなワナにかか ったりする。やっかいだなぁって思う。▲人間のことばの一切が響 かない時、やっぱり、神のことばとの出会いが方向を変えるのだと 思う。だから、礼拝が大事なんだと薦める。のろいの言葉の多い世 界で、祝福の言葉が聞こえるのは、礼拝の場所であるから。だから 、多少煙たがられても、やっぱり礼拝に誘ってみようと思う。



2007年12月23日

光のクリスマス

牧師 犬塚 修

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 ヨハネ1:4

「靴底と人の心」  リタ・ベネット
人の心は靴底みたい  厚いのやら  うすいのやら
すり切れていたら みじめだし  平らだったら 足が痛む
歩調を乱すのもあれば どこかになくなったのもある
冷たければ はきたくもないし
からっぽだったら  さびしい  
キックばかりも困るけど 気ままに出かけてばかりも困りもの
継ぎのいるものあれば ツンと気取ったヒ−ルも
でも修理がすめば 立派になって 「光」があたると 暖まる
力にあふれて  スタ−トすれば  賞をめざして 走りぬく
この詩人は、自分の心を薄汚れた靴底にたとえました。しかし 、修理される希望を抱いています。今日クリスマス礼拝の日です。 光の主イエス様を自分の心にお迎えしたならば、寂しい心はぬくも りで満たされ、新しい喜びの人生が開始します。私たちがなすべき ことは、光にあたることです。つまり、自分自身を神の愛の光の中 に置くことです。御子が生まれた飼い葉おけには光が輝いています 。飼い葉おけからすべての祝福が始まります。東方の占星学者たち を導いたのは、救世主の星の光であり、寒さに震えていたベツレヘ ム村の羊飼いたちをめぐり照らしたのも、天からの光でした。「主 の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした。」(ルカ2:9) 光の御子と出会い、このお方と共に歩む人は、新たに生まれ変わり 、永遠の命の喜びに輝きます。それは安らかで充実した人生です。



2007年12月30日

主に感謝しましょう

牧師 犬塚 修

御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働 くということを、わたしたちは知っています。ロマ8:28

「お父さん、イブ礼拝の説教の一部は間違っていたよ」「エッ、ど こが?」「三原色は赤、青、緑」言ったけど、本当は、青でなく、 黄色だよ」「そんな事はない。色彩の場合は確かにそうだけど、光 では青だよ」「でも、光なんて聞こえなかったよ」「確かにそう言 ったけどな…」先週の火曜日の三男との会話です。自分がどんなに 確かに言ったと確信していても、それが間違いなく相手に伝わって いるという確証は何もないことを改めて痛感しました。この実例の ように、この一年、お互いのコミュニケ−ションにおいて、明確に 伝達がなされず、いろいろなカン違いや誤解、曲解などがあったこ とを思います。考えてみれば、自分の思いを相手に100%、正しく伝 える事は至難の業です。もし、良い交わりができたとすれば、一重 にイエス様の導きと執り成しによると信じます。主がすべての状況 下で、支配し、助けられなかったならば、最悪の結論に至った事は 数多くあったと痛感します。しかし、主は私たちの不足を補い、万 事を益に変えて下さいます。主のみ名はほむべきかな!です。新し い年にも様々なことが起こるでしょうが、イエス様は今年にまさっ て、すべてをプラスに変えられると信じて歩きましょう。 「あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、 それがわたしを力づける。…わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯 を溢れさせてくださる。命のある限り、恵みと慈しみはいつもわた しを追う。」(詩編23)。





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