巻頭言
2006年12月


2006年12月3日

「知っている」

牧師 犬塚 契

シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさ い。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせ たりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして 定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます ――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」  ルカ2章34節

シメオン老人が、若い夫婦マリアとヨセフと幼いイエスを前に して、祝福とこれから起こるであろう出来事を伝えたルカ2章の シーン。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」とは、祝福 の言葉なのか?「いい子に育つよ」「いい目をしている」「お 母さん似だね」というような美辞麗句でなく、十字架の苦難イ エスの使命を伝えた。▲ある人がクリスマスについてこう書い た。「クリスマスは地球という星の上の人生を感情的に単純化 したりはしなかった。恐らくこれがクリスマスがめぐるたびに 私の感じていることなのだ」▲私たちの歩みも単純化され得な いことばかりであり、理解を超える事柄がいつもそびえている ように思う。笑いの影で、赤面の後で、人はそう単純でもない し、分かりやすくもない。神にしか、理解できない深淵がある のだ。▲神社のお守りバラシしてみた。丁寧に包んだ紙の置く に数粒の米が入っていた。空腹にも足りない。申し訳ないが、 それでは私の神にはなり得ない。イエスは地に足をつけ、喜び と苦しみ、歓喜と絶望を体験し、人の歩みを「知っている」と 言える権利を得た。肉となったイエスが私の主であり、救い主 であることを信じる。積雪に残る足跡のように、先にイエスの 足跡があり、その後を踏みしめる歩みでありたい。復活の主の 前に歩む者でありたい。



2006年12月10日

「礼拝と降誕」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今 こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくだ さいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の ために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あ なたの民イスラエルの誉れです。」。ルカ2:28〜32

神を信じ、真実に生きたシメオンは、今、人生で最高の栄光の 瞬間を迎えました。それは長年、追い求めていたメシアを拝し たことでした。神の御子イエス様を一目見たとき、彼は天にも 引き上げられるような霊的な衝撃と感動を受け、魂は喜びと平 安に包まれました。彼のあふれる感謝の思いが讃美として記さ れています。  私たちにとって人生最高の喜びとは、イエス様と出会い、信仰 によって救われる事です。シメオンの人生にも、人知れず深い 悲しみや苦悩があったことでしょう。しかし、この御子との運 命的な出会いによって、その魂は数々の苦悩を乗り越え、さら なる讃美へと引き上げられたのです。「『最初の者にして、最 後の者である方、一度死んだが、また生きた方』(黙示録2:8)を 心に宿した人は人生の勝利者です。「神から生まれた人は皆、 世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたち の信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると 信じる者ではありませんか」(Tヨハネ5:4〜5)いかなる時で も、主を真実に礼拝して歩むことです。



2006年12月17日

「言は肉になって」

牧師 犬塚 契

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々に は神の子となる資格を与えた。…言は肉となって、わたしたち の間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独 り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」 ヨハネの福音書1:12-14

 旧約聖書の時代。イスラエルの民を導いてきた神の声は、火 の柱雲の柱のように大きく誰にでも分かる様な大きなものだっ た。それが、民の不信と放縦によって、聞こえ難くなっていく 。預言者たちはそれでも神の言葉をとりつぐ者として語り続け たが、民は聞く耳を持たなかった。次第に小さく、細くなって いく神の声。旧約、最後の預言者マラキから、まったく聞こえ なくなる。そして、沈黙。神は忘れてしまったのか、愛想をつ かせたのか、マタイの福音書の最初に登場するイエスキリスト の系図を見てもその声のトーンが分かる。アブラハム、イサク 、ヤコブから始まり、ボアズ、ルツの名前が途中で登場する。 お馴染みの名前の列記。ダビデ、ソロモンが国の王として活躍 した。神の証しがたてられた時代だった。聖書にその記述は多 い。その後の分裂で、だんだん雲行きが怪しい。最後の方、ア ゾル、サドク、アキム、エリウド…って誰だろう。恐らく特記 したことがなかったのだろう。マラキからクリスマスまでの沈 黙は400年に及んだ。▲信仰生活を送る上で、「見捨てられ」感 がある時、この沈黙の400年のことを思う。「よし、400年待と う」という決意でない。沈黙の中にすら「主の年:AD」への 道が敷かれており、クリスマスの準備がなされていたことを思 う。



2006年12月24日

「喜びのおとずれ」

牧師 犬塚 修

「「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告 げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生ま れになった。この方こそ主メシアである。」        ルカ2:10〜11

 今から約2000年前、神の御子がベツレヘムという小村にお生 れになった夜、野宿し、寒さに震えていた羊飼いたちは「大き な喜び」を告げられました。その内容とは人類を不幸のどん底 にたたき落とすものからの解放を意味していました。まず、そ れは病からの解放でした。預言者イザヤは御子誕生の700年も以 前に「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたし たちの痛みであった」(イザヤ53:4)と予言していました。病気 になると、不安感に襲われ、「自分は孤独だ」と感じてしまい ます。しかし、主を私たちのすべての病を背負われました。私 たちの痛みや苦しみ一緒に体験し、救い出すために主はこの世 に来られたのです。 また、どうしても避けられない問題として「罪」があります。 罪は「的外れ」の意味で、神に背を向けている状態の事です。 この不従順の罪をくり返すと、心はかたくなになります。主は 幾度も罪に悩む私たちを地獄の苦悩から救い出すために来られ たのです。私たちのすべての罪を背負い、十字架で死ぬために 来られたのです。ここに神の愛があります。主を宿した飼葉桶 は、決してきれいな場所とは言えませんが、御子を宿した瞬間 から、特別な輝きが与えられました。そのようにイエス様を受 けいれた人の心は輝きます。そして、あらゆる束縛の鎖から解 放されていくようになるのです。



2006年12月31日

「使命」

牧師 犬塚 契

「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(ヨハネ5:8 )「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を 洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければな らない。」(ヨハネ13:14)「だから、あなたがたは行って、 すべての民をわたしの弟子にしなさい。」マタイ28:19」

 イエスキリストの誕生からの歴史がまた一年、綴られていく 。イエス・キリストが十字架刑にされたことによって、弟子た ちは自分たちの師を失った。茫然自失であった彼らには、使命 が必要だった。そして、復活という出来事によって、彼らは自 分の為すべきことを知る。部屋の隅でビクビクと死を恐れる者 だったのに、彼らは変わり、ヨハネを残してすべて殉教した。 ▲イエスキリストのミニストリーを考える時に、「あなたは愛 されている」のみでは終わらなかったように思う。キリストは 、愛を確認させ、そして使命を与える。「あなたは愛されてい る。そして、あなたには為すべき仕事がある」と確認させるの だ。地上に来られた30年余りの中で、人々に会い、本当は神が どう思っておられるのかを示し、そして、そっと次の使命を与 え続けたのが、イエス・キリストだった。▲私たちにもやはり 為すべきことがある。神から与えられた使命としてすべきこと がある。神の子の血で贖われた者、多大な代価を払って買い取 られたものが、そのいのちを自分のものとせず、神に礼拝して 生きることを求められている。2007年の神の歴史を生きること を赦された。その中に心からの礼拝者として歩んでいきたい。 小さな日常の中に私の為すべきことがあるのだと思う。





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