巻頭言
2005年12月


2005年12月4日

「造られた者の憧憬」

牧師 犬塚 契

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」ヨブ記1章21節

聖書の創世記には、世界で最初の罪が書かれています。それは「神のようになろうとした」ことでした。罪と言いますと、法を犯すことをイメージするのですが、聖書はそうは語りません。また日本ではただ「人様に迷惑をかける」ことが罪であり、恥と罪がイコールであるようにも思いますが、聖書はそう語りません。その性質は未だ生きていて、「神のようになろう」とする誘惑は強いものがあります。そして、自分の生きたいように生き、やりたいようにやり、かえって苦しくなるのです。 神によって造られ、神によって生かされている者としての位置を確認することなしに、つまりは「神であることをやめる」ことなしに、心は解き放れていかないものだと思うのです。そして、人は誰でも「造られた者」としての憧憬を残しています。神の前にひざをおることをなお覚えています。心に鈴があって、おかしなときにチリンと鳴るのです。そして、やっぱり帰ろうと。 教会はそういう場所です。檀家さんが教会を支えているわけでもなく、物好きが集まっているわけでもありません。「神のことばを聞きたい」と思われた方々が、「神様ごっこやめよう」と思われた方々が、足を向けるところです。街はクリスマスの装いです。緑と赤が華やかに彩ります。しかし、それに増して教会は静かに言葉を聞くクリスマスにしていきたいと願わされています。



2005年12月11日

{奉仕と降誕}月間の中で

牧師 犬塚 修

「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た」ヨハネ1-14

クリスマスの出来事は、神が私たち一人一人を熱愛された事実を表しています。人は誰でも自分の存在の意味や意義について不安を抱えて生きています。まじめにものを考える人は「私は生きていて良いのか」とか「私は何かの役に立っているのか」などと否定的に思い悩むこともあります。その思い煩いに取り付かれると、いつしか生きる喜びや気力を喪失してしまうのです。しかし、もし、誰かが「あなたは本当にすばらしい人だ。あなたは誰よりも優れていてとても魅力的だ。あなたほど私を魅了する人とであったことはない。私はあなたのことを思うと、夜も眠れないほど心がわくわくする」というような過剰な(?) ほどのほめ言葉を受けることができるならば、もう死んでも良いと思うほどに感激するでしょう。たとえ、それがうそであったとしてもです!その心からの賞賛の言葉には人を生かす力があるのです。人は誰でもこのように溺愛にも似た激しい熱愛に飢えている気がします。イエス様が肉をもって私たちのところに来られたのは、神の激愛そのものです。たとえ私たちが飼い葉桶のような価値があまりない者であったとしても。神はそのような私たちを私の住家として喜び、その心に宿られます。そして、その愛を受けたことを確信した私たちは愛に飢えている人に、その愛で交わることができる人へと成長していくのではないでしょうか。



2005年12月18日

奇抜な?クリスチャン

牧師 犬塚 契

最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、 その顔はさながら天使の顔のように見えた。使徒言行録6章15節

志茂田光子さん、志茂田 景樹さんの講演会。教会が企画したもので、こんなにも早くチケットが売り切れたためしはなかった。危うく、私自身行けなくなるところだった…。光子さんの講演、書かれていた著書のタイトル「わたしはぜったい別れない。見捨てられた妻の手記」であったから、強い女をイメージしていた。けれども、実直にただ神を信じる人、また、神に持ち運ばれてきた人であることを思った。景樹さんはテレビで見たままの姿で来られた。いつも通りなのだろう。質疑応答で質問が出た。「奇抜なファッションをしている理由とは?」との質問。「自分が着たいものを着ている。目立ちたいだけでは、続けられません」と答えられた。誕生日にいただいた「オシャレ」なネクタイを礼拝につけていったことがある。「どうしたの?そのネクタイ。オカシイわよ」。フジンは遠慮がない。心臓弱く、波風怖い私は次週もつけていく勇気がなかった。そのことを思い出した。100人に1人、日本のクリスチャン人口。だから、先が真っ暗の中で、なお希望が見えてしまう人が100人に1人くらいいてもいい。不当な仕打ちの中で、その課題を神に任せる人がいてもいい。迫害する者のために祈る人がいてもいい。右の頬を打たれても、左の頬を差し出そうとする人がいてもいい。なんと言われようと、「いや私は聖書の神を信じています」と言える人がいてもいい。殉教しようとする中でなお顔を輝かせてしまう人がいてもいい。否定語や愚痴は信仰がなくても言える。信仰があるから言える言葉を培っていきたい。奇抜なファッション以上のクリスチャンの独自性、特権、独一。



2005年12月25日

「絶対的な安心感」

牧師 犬塚 修

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、 宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。マタイ2-11 

文豪・夏目漱石は不遇の幼年時代を過ごした人と言われていますが、それだけに人 一倍、母の愛に敏感でした。最晩年に書いた作品の「硝子戸の中に」で、「自分が 子供の時は、よく昼寝をしたが、時々、悪夢にうなされたこと」を書いています。 ある日夢の中で、他人の金を使い込み、それをつぐなうことができないと分かると 、とたんにパニックに襲われ、大声で叫んでしまったのです。その時、母が駆けつけ てくれたので、罪の意識を打ち明けたところ「母は微笑しながら、心配しないでよい よ。御母さんがいくらでもお金を出してあげるから」言ってくれた。それで、またす やすやと寝てしまった」と感謝と喜びをこめて書いています。私たちに非常に大事な ものはこの「すやすやと寝る」という絶対的な安心感がある気がします。生活の中で 不安や混乱、疑心暗鬼、恐れの念に取り付かれると、生きることは非常に辛く厳しい ものとなるでしょう。決して変わることのない安心感はどこから来るのでしょうか。 それはクリスマスの出来事から来るのです。神の御子イエス様は、みどり子としてこ の世に誕生されました。母の腕に抱かれているみどり子は、恐れることなく、思い煩 うこともなく、すやすやと安らかに眠ることができます。神はひそかに悩む私たちに 「安心しなさい。私は十字架のあがないによってあなたの罪をすべて赦し、あなたの 負債を完全に償ったから」と語りかけられます。この主の愛を心に受け入れて、永遠 の命を得て、無尽蔵の安心感に満たされたいものです。





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