巻頭言
2004年12月


2004年12月5日

「教育と従順」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らいあなたの正しさを光のよう に、あなたのための裁きを、真昼の光のように輝かせてくださる。 詩篇37:5〜6

クリスマスは私たちに御子の御父に対する完全な従順のすばらしさを教えてく れます。確かに、従順な生き方は私たちを不幸に陥れるものから解放します。 その一つは高慢さからの解放です。「私がこれまでがんばってきた。すべて私 のお陰だ」という傲慢さを持っていると、神に対する従順も、人への感謝も失 われます。さらに自己中心となり、狭い自分の価値観に埋没するようになりま す。そして、主と出会うチャンスを失っていくのです。高ぶりの心は、イエス 様ではなく自分を人生の主君とします。残念ながらヘロデはそのような人でし た。彼は主に対する信仰ではなく、根深い敵対心を抱いていました。不信と疑 いの心を秘めていたのです。彼はイスラエルの王として君臨し、何不自由ない 暮らしをし、自己満足に耽っていました。永遠の命にいたる救いを得る為に、 高慢さから従順さへの転換が必要です。ヘロデの罪は、いつまでも高ぶりの道 から離れられようとしなかったかたくなさにあります。また、主に従順な人は 思い煩い、強迫観念から解放されていきます。マジメな人が陥りやすい欠点は 、何でも自分の責任と思い込む事です。 「私がもっとがんばれば、立派であっ たならば、私により深い愛があったならば、うまくいっただろうに。私がダメ だからこんな結果になったのだ…」という自己否定的な自責の念が襲うのです 。その結果、心はうつ的になり、生きる気力が奪われます。これをメサイア・ コンプレックスと言います。つまり、自分がメシアのようにふるまって、必死 でがんばるのです。そして、次第に追いつめられていきます。むしろ、早く自 分の限界を知ることです。私たちの重い問題を解決するのは、がんばる私では なく、大能の主イエス様ご自身です。自分の失敗や罪を正直に告白し、主に敗 北宣言して、一切を主に任せるならば、その人の中にクリスマスの光が輝きわ たるでしょう。



2004年12月12日

羊飼いとして

牧師 犬塚 修

御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行 って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語 り合った。                              ルカ2:15

御子の誕生という歓喜のニュ−スは一体、誰に伝えられたのでしょうか。第一 番目に考えられる可能性は、聖書を良く研究していた祭司長や律法学者たちで した。しかし、彼らは御子を拝む絶好のチャンスがあったにもかかわらず、ベ ツレヘムに向かって歩み出そうとはしませんでした。それに対し、野宿してい た貧しい羊飼いたちはすばらしい出来事を見るために出発したのです。私たち の心の中に、この二つの生き方が混在している気がします。第一は律法学者の ように、主に対して無関心な態度です。いろいろと聖書を学ぶのですが、それ が真実な行動とならないのです。第二は羊飼いの態度です。羊飼いは当時の世 界では、卑しい者たちと呼ばれ、軽蔑されていました。その彼らの上に神の栄 光が輝いたのです。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによっ て、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たち を照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(ルカ2:78〜79)とあります。ですか ら、たとえ今「暗黒と死の陰に座して」いても、絶望と悲惨しかないと思いつ めることはありません。必ず、すばらしい救いの出来事があります。彼らは社 会的差別を受け、また弱さ、貧しさ、悲しみ等を深く味わわざるを得ない虐げ られた人々でした。しかし、彼らの長所は長い間、忍耐強く、救い主を待ち望 んでいたところにありました。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はそ の人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる 」(同5:3〜4)私たちは二つのうち、律法学者よりも、羊飼いのような熱い信 仰を抱いて主に仕えたいものです。主信仰に立ち、神の御子を信じ、御子を拝 するため、共に御子に向かって巡礼の道をたどるならば、幸せな人生となるで しょう。



2004年12月19日

クリスマスにおける謙遜

牧師 犬塚 修

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのと き、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の 王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でそ の方の星を見たので、拝みに来たのです。」 マタイ2:1〜2

東の国からはるばると、神の御子として生まれたイエス様を拝むために旅立っ た学者たちは熱い情熱と謙遜をあわせ持った優れた人たちでした。彼らの国は かつてバビロン大帝国と呼ばれ、その栄華は光り輝くばかりであり、彼らはそ の子孫としての誇りを持っていたことでしょう。だが、彼らはそのような誇り をかなぐり捨て、メシアを礼拝するために、貧しい小国イスラエルを訪れ、持 参した黄金、乳香、没薬をうやうやしく捧げたのでした。「幼子は母マリアと 共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、 没薬を贈り物として献げた(11節)彼らの姿に人間としての謙遜さがにじみ出 ています。そこには人を押しのけてのし上がろうとする野心も、人を支配しよ うとする傲慢さも、虚栄心もありません。あるのは、静かな信仰告白の美しさ です。もし、私たちが人間的な力や強さを頼みとすると、生き方は破壊的、攻 撃的となります。強さの追求は悲劇をもたらします。アメリカはイラクに対し て、国家の威信をかけ、暴力的な強さをもって殺戮戦争を始めました。現代は 「強さ」を求める時代なのかもしれません。この我(が)の強さは、人を傷つけ 死をもたらします。私たちに本当に必要なものは、むしろ「弱さ」です。弱さ は人を傷つけません。弱さの自覚が謙遜を生むのです。豊かな人生は自分の「 弱さ」の発見から始まります。学者たちは学識豊かな有徳の士でしたが、イエ ス様がおられる馬小屋では「強さ」というよろいを脱ぎ捨てて、魂が砕かれた 「弱さ」を誇るしもべとしてひざまずいています。その謙遜な姿から、私たち はへりくだった者として生きる事の幸いを深く学びました。それは幸いに満ち た道でした。



2004年12月26日

新しい年に向かって

牧師 犬塚 修

イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。……また地震があ り、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った 。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人 に現れた。 マタイ27:50〜5

イエス様が十字架上で絶命された時、ふしぎな出来事が起こりました。それは 、すでに死者たちが復活した事でした。彼らがすぐにエルサレムの人々に現れ たならば、自分達が見捨てたイエス様が実は、全能の主であったことに気付き 主を信じたかもしれません。ところが、死者たちは生き返ったにもかかわらず 、そのまま暗い墓の中にとどまりました。ですから、誰もこの驚くべき奇跡に 気付く事はなかったのです。2日後の早朝、イエス様が復活された後、彼らは エルサレムに入城したのでした。この奇跡的な出来事は私たちに何を告げてい るのでしょうか。私たちの現実はこの出来事と良く似ています。主を信じた私 たちはすでに復活の命を頂いています。けれども、誰もが分かる形では復活の 輝きはいまだに放ってはいません。私たちは相変わらず、弱さと惨めさの中に あるかもしれません。しかし、実は私たちは彼らのように暗い墓から新しい命 輝く世界へと飛び出そうとしているのです。それはひよこが殻を破って新世界 に飛び出そうとしている姿と重なります。私たちはこのひよこのようなワクワ ク感を抱いて自分のことを、また忍耐強く愛している人たちのことを見つめね ばなりません。2005年という真新しいキャンバスに「死からいのちへ」という 復活信仰というあざやかな放物線を描かねばなりません。「古いもの過ぎ去り 、見よ、新しいものが生じた」(第2コリント5:17)のですから。「我々は再 発見しなければならないのは、唯一の神に対する信仰である。この信仰によっ て、われわれは寒々とした谷間を日の当たる喜びの小道に変えることができる 。悲観論という暗い洞窟に新しい光をもたらすことができる」(M・キング)


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